玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

シナ的人間(9)- 儒教文明の滅亡

2012-12-30 21:05:03 | 左様出尾蛇瑠

 王陽明(1472-1592)の没後の近現代におけるシナ大陸の思想潮流を考えるとき、キリスト教(1605年イエズス会の宣教師が南京へ)、産業革命(1760-1830)など科学技術の進歩が社会へおよぼした影響を抜きには語れない。

清代末から民国の1920年代の主流は、胡適(1891-1962)の「中国哲学史大綱」に代表されるよう見かた、「戦国時代に一度高みに達した中国思想は、その後千年にわたり宗教的迷信の支配する低迷の時代を経過したが、程朱学において科学精神が復活しはじめ、さらに清代の考証学がそれを継承・発展していった」というのが、中国思想史の基本的な流れであった。

そんな中、梁啓超(1873-1929)は、王陽明の「知行合一」論について、「最も永久的な価値を有するものであり、かつ、最も現代の潮流にとって適切なものなのだ」と主張した(1926年)が、胡適らの「科学精神」の発展を主旋律とする中国思想史の流れに対して、陽明学は「反科学」運動として反動的意味を与えられることになった。

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もうひとつ日本的な見かたとして、奥崎裕司「儒教文明の滅亡」から引用すると、「孟子が私淑し、宋学者が超望した意味の聖人像は、陽明学において町中の人を本来的に聖人とみることによって遂に完全に消滅したと見ざるをえない」これを奥崎は、儒教の自爆と言っている。

性善説により、人は良知を備えており、心が良知に誠であり主体的であれば、必然的に善を知ろうし、知れば実行しようとする「知行合一」である。これは誰でも良知に誠になる可能性を示唆しているだけで、町人でもだれでも聖人だといっているわけでもないとおもうが、座学知識で優越感を得たい学者としては「商売上がったり」で、はなはだ気にいらない論なのかもしれない。

それよりも朱子学、陽明学の前提となっていた本質的な部分について梁啓超が指摘する。「儒学は、心を治め身を治める道については具さに語っている。だが、その学説のおおきな部分として理や氣や性や命や太極や陰陽があり、造物の原理を探ったり、心体の現象をかたったりするものであった。およそこれは所謂「心的科学」であり、道を学ぶ作業には、本来関わりのないものである。まして、我々がこういった科学をまなぼうとするならば、現在の西洋の最新の学説が存在しており、明儒たちがいったことは、まったく捨て去ってもかまわない。故に科学書を読む目で宋明の語録を読めば、全くわずかばかりの価値もない。」梁啓超は1903年2月から10ヶ月間渡米し米国の事情について知っての上でこう言っている。

朱子学が科学精神を復活させ、清代の戴震(1724-77)などの考証学が継承したとは胡適らの負け惜しみだろう。その後の歴史がシナ人の非科学性を物語っている。

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こうして二千五百年のシナ大陸の思想史を見渡してみると、孔子・孟子・王陽明の天才的才能も13億の我欲の砂漠に呑み込まれ荒涼たる荒れ地しか見えない。今後、共産党独裁が倒れ、何十、何百の癒しの時を超えて天才が現れるかもしれない。独裁者がまた道家を必要とするような社会なのか、はたまた、民主社会で社会の悪を扱った新しい道学を考え出す思想家が出るか、またはロシアが500年の奴隷時代にキリスト教に救いを求めたように宗教として生まれ変わるか・・



引用:前回と同様

シナ的人間(8)- 陽明学(3)

2012-12-27 20:38:53 | 左様出尾蛇瑠

 王陽明が官僚として同僚士大夫を見たとき、朱子学を修めして事事物物の理を窮めるということを口実とし、善を行うことを先送りし逃げている現実があった。「知行合一」は、知ったことは必ず実行せよという実践強調論的な主張ではない。

陽明は、このような決断回避の根底に、善を欲せず本来性に背を向けていうるという根本的な悪の現実を見ている。更に、陽明はその根本的な悪を克服しない限り、悪を去り善をなそうとする修養さえも、結局自己の善を誇り、自己の存在の優位性を主張するための朱子学が成り下がっていると看破した。

善を目的とする修養が、逆に更なる悪を生じ、本来性からますます離れる結果となるのは、主体である心がその主体性を喪失しているからである。

心が良知に誠である時、本来性に背を向けていたる心は本来性に復そうとする。その時、心は始めて善の判断・行為主体となる。主体性を確立した心は、何が善であるかを知ろうとするし、知れば実行しようとする。知の中に行が、行の中に知が既に内在している。それを王陽明は、「知行合一」と表現したのである。

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王陽明の「万物一体の仁」は、程明道の「仁者は天地万物を以て一体となす」からであり、「礼記」の礼運篇の「聖人の耐く天下を以て一家となし、中国を以て一人となすは、之に意あるに非ざるなり。」とある大同思想に基づくものであった。

そして陽明の万物一体を実現する方法は、良知を致すこと以外にないとする点が特徴である。「天地も人の良知がなければ、また天地であることは出来ない。蓋し天地万物は人と原々一体なのである」のように人の良知が万物の存在根拠であり、万物の生命力であるとするのが陽明の万物の一体である。これは存在論的立場から述べられたものである。

もうひとつ、万物一体は人と人、人と社会という関係の中で成立するもので、王陽明は孟子の「幼児が井戸に落ちそうになった例を引き、幼児がおちそうになるのを見れば、必ずおそれいたむ心が生じる。これは仁の心が幼児と一体だからである。」を例にして、相手のことを自分のように思いやる、そのとき相手と自分とは一体となっているとした。

このような人間関係における万物一体は、他者を思いやる、良知を致すことで、初めて実現するものであるから、自然にいつも成立しているものではない。現実の社会は一体ではなく、対立し相克するような社会なのである。また、社会が分裂相克している時、そのような社会を統一調和させるためには、個々の人間がそれぞれ自分の社会的責任を果たすことが求められる。人間には能力の違いがでてくるが、役割分担をするとき、能力におうじて区別せざるを得ないのが現実だ。その区別が仕事の押し付け合いや、差別化といったことになれば、社会の分裂は拡大してしまう。優越意識、差別意識、安楽を求める心から本来やらなければならない仕事を避けるのではなく、嫌でも社会での自己の役割を果たすのも万物一体の仁である。

以上のように王陽明の万物一体の仁には存在論からのものと人間関係からの二つある。

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以上、陽明学の基本的で重要な思想の要点をまとめた。良知を基本とした思想は、その良知によって個は、如何なる外的権威、伝統的価値をも、そして自己の判断・行為をもすべて相対化しうる主体として確立されるとした。

また、個々の人間は、職業の違い、身分の高低、才能の優劣という差異があるが、良知によって生きることにおいて、主体として確立された個は平等であるとした点は、近代的であり、革新的思想でもあった。

しかし、個の確立による道徳主義は、伝統的儒教の「修己・治人」からのものと根本は同じはであるが、社会体制内部の悪にたいしては無力であった。また「心即理」としたことで欲望が肯定されたと清代では曲解されるようにもなってゆく。

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さて欲望と腐敗の支那大陸の歴史から学ぶべき教訓とは何か?もはや支那大陸に良知に基づく道徳主義が復活することはないのか?この素朴な疑問からスタートしたこのシリーズも終着へとちかづいた。次回は最終回として「儒教文明の滅亡」を中心として締めくる予定です。


引用先
1)「朱子学と陽明学」島田虔次著、岩波新書
2)「明清はいかなる時代であったか」奥崎裕司編著 汲古書院


シナ的人間(7)- 陽明学(2)

2012-12-24 22:14:42 | 左様出尾蛇瑠

 王陽明が没し100年を経た日本の話からはじめよう。江戸時代のベストセラーは、吉川幸次郎先生によると朱子の「四書集註」だったという。およそ、書というものがある家には武家、町人、商家を問わず有り、学んだという。しかし、朱子の四書集註じゃダメだと異をとなえ、京都堀川に私塾・古義堂を開いたのが伊藤仁斎(1627-1705)日本儒学の創始者であった。弟子は3000人を超えたというからすごい。また同時代、堀川を隔てて朱子学の山崎闇斎も塾を開いて多くの門下生を抱えていた。元禄の世とはいえ、日本において治世のための教養・学問が盛んであったか分かる。

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 朱子学は事事物物の理を窮めよと説く。王陽明はこれを実践し、庭の竹を格物致知しようとして7日目にノイローゼとなった。また一物一事を窮理していくとしたら一生かけても理を窮めることなどできないし、一木一草みな理あり、というが、いったいどうして格すればいいのか、それに、たとえ一木一草の理に格えたとして、そのことによって自己の「意を誠にする」ことがどうして可能であろうか?こうして、朱子の格物致知の説に行きづまったのだ。そして、朱子の格物説は、結局において「外」によって「内」を補おうとすることにほかならないとの考えに至る。

この矛盾を解決するために王陽明は思索をつづけた。そして前述した左遷先の貴州省竜場駅で大悟したのである。「聖人ノ道ハ吾ガ性ミズカラ足ル。サキニ理ヲ事々物々ニ求メシハ誤リナリ」と。陽明が格物致知を追及して至った「心即理」である。

朱子は、心を「性」と「情」を分け「性即理」を説いた。欲に従う「情」に心が動かされれば「善」を行うことはできない。「心即理」では、心が万里の判断主体であるという要素と、心には万里の本である良知が内在しているという要素の二つがある。そして王陽明は、心が良知に従うことが一番困難なことであり、心は良知に背を向けているし、良知の声は私欲という雑音にかき消されてかすかにしか聞こえない。だからこそ、あらゆるとき、あらゆる場所において心の不正を正し、天理の存するようにすることが大切であり、良知を根本とし、良知と一体となることを最終目的とする、陽明学の思想に至ったのである。

また、朱子の格物致知を、陽明は「格物致知とは、物すなわち意の発動を正すことにより良知を実現する。わが心の良知は天理である。すなわち、我が心の良知を事事物物に致せば、事事物物みなその理を得るのである。つまり、わたしの立場は、心と理を合わせて一つにするものにほかならない」(伝習録)とした。



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読書人の哲学である朱子学に対して、実践する哲学である陽明学の真髄がここにある。

(つづく)


シナ的人間(6)- 陽明学

2012-12-23 22:36:36 | 左様出尾蛇瑠

 孔子・孟子から始まり儒教の終着点ともいえる王陽明の陽明学へと辿り着いた。陽明学は、禅とともに武士道、明治維新の志士へ決定的な影響を与えたのは皆さま御承知の通りです。

 影響を受けた代表的日本人を、「日本陽明学 奇跡の系譜」(大橋健二著)から上げると、中江藤樹、熊沢蕃山、三輪執斉、中根東厘、富永仲基、林 子平、大塩平八郎、佐藤一斎、梁川星厳、吉村秋陽、山田方谷、横井小楠、奥宮造斎、春日潜庵、池田草庵、金子与三郎、河合継之助、西郷隆盛、高杉晋作、雲井龍雄、富岡鉄斎、中江兆民、末広鉄腸、植木枝盛、西田幾太郎、中野正剛、安岡正篤、など。

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朱子が亡くなったのが1200年、南宋から元(1271―1368)を経て明(1368-1644)代に入り、およそ100年後に王陽明(1472-1528)が現れる。陸象山から王陽明へ至る間には呉康斎、陳白沙がいるがほとんど新しいアイデアは生まれなかった。陽明が進士となるのが28歳のとき、朱子没後300年を経ている。当時は、朱子学が全盛であり、陽明も朱子学から入り、真剣に朱子学を極めようとした。そして、その疑問から陽明学へと至るのである。朱子学の窮理を極めるために、友人と庭先の竹を格物し7日目にノイローゼとなった(このとき友人は3日で倒れた)という話は有名である。

王陽明の父が進士になって北京へ移ったのが陽明10歳のとき、「王陽明先生出身靖乱録」という記録(佚存書、シナには無く日本に写しが残っている)からすると陽明はワイルドな少年だったようだ。陽明は勉強嫌いで、いつも塾をエスケープして士大夫の子弟にあるまじき戦争ごっこに精をだしていたという逸話がある。

陽明は、進士として仕えていた35歳のとき、飛ぶ鳥を落とす権勢をふるっていた上司である臣官・劉瑾に対する反対運動で投獄され、少数民族地帯である未開の山地左遷され、耐えがたい生活におちいる。だが天才を発揮し、もし聖人だったらどうするだろうか?と日夜静坐して瞑想し必死に思索した。そしてある夜ふけ、惣然と大悟する。「聖人ノ道ハ吾ガ性ミズカラ足ル。サキニ理ヲ事々物々ニ求メシハ誤リナリ」と。

その後、劉瑾が失脚し、陽明は呼び返され正常な官僚コースを歩み、最後は南京兵部尚書(陸軍大臣控)にまで昇進する。当時のシナは、各地で大規模な農民反乱が続発していたが、陽明は次々に反乱を平定し、軍略家、政治家として非常な名声を得た。
 
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陽明学といえば、「心即理」「知行合一」「万物一体の仁」であるが、その思想は「良知」を根本として成立したものである。そして王陽明は個人の心の根本悪を深く掘り下げ、そこらから個の主体を確立し、孔子・教書も既成の価値観も相対化した。

(つづく)

引用
1)「朱子学と陽明学」島田虔次著、岩波新書
2)「明清はいかなる時代であったか」奥崎裕司編著 汲古書院

シナ的人間(5)- 朱子学(その2)

2012-12-21 22:33:43 | 左様出尾蛇瑠
先週の衆院選挙で、民団党いや民主党に天罰が下り、あちらこちらで祝杯を上げていたら1週間過ぎてしまいました。

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 さて前回は、朱子学が朱熹により完成されるまでを主要人物からたどった。では朱子学とはどんな思想・哲学・学問なのか?を明らかにし、朱子学の問題から発した陽明学へと進むこととする。

 朱子学においてもっとも重心のあるのは、倫理学、もしくは倫理学であり、その人間学の原理は程伊川の「性即理」であった。性とは、張横渠が定式化した「心は性と情の統一体」であるところの「性」であり、個別的存在における「理」である。「性」は内容的にいうと仁・義・礼・智・信の五常にほかならない。しかしこの「性」は「未発」であり、静であり、体である。「未発」とは四書の『中庸』にもとづくことばで、喜怒哀楽(すなわち情)が発動する以前の状態で、絶対に「静」なる中正をえた本質態をいうのである。

    性(仁・義・礼・智・信)、形而上、未発 - 本然の性(天理)・ 善
  / 
心 
  \
    情(惻隠・羞悪・辞譲・是非)形而下、已発 ― 人欲が動、中正を失し 悪

つまり、朱子学(宋学)とは、天理を存し、人欲を去るための方法であり、聖人になるための学問である。そのための方法は、一に「居啓」、二に「窮理」による。

居啓とは、心を集中専一の状態に保ちつづけること、心身を収斂して本然の性を守ること。
窮理とは、理を窮めるとは「大学」(四書の)の言葉でいえば「格物致知」である。朱子はこの格物の格を「いたる(至る)」と読み、物を「事」と読み、物に格るとは、事に至ることする。すなわち、事物の理をその究極のところまで窮め至ろうとすることである。

簡単には、事物の理(本質)を窮め、心身を収斂して本然の性に至ること。格物窮理のもっとも良い手段は読書、すなわち儒教の経典を読み、研究することだという点に注意する。なぜなら、事物の理はすでに聖人によって誤りなく把握され、そこに記載されているとかんがえる。朱子学はあくまでも読書人の哲学であり、知識(記憶)主義であった。

居敬の手段としては、欲に動かされた状態 (已発)を鎮めるため「静坐」する。これは、明らかに禅宗の坐禅からのパクリとおもわれるが、これを否定するために、心の動の重要性を強調する。常に動中に静を求めるべきだと、ことさらに強調して説いた。

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朱子とまったく同時代に陸象山(1139-1192)が現れ、朱子の論適となり、後の陽明学の思想「心即理」を説いた。朱子が心を「性」と「情」に分け「性即理」としたが、象山は心は分析しないで渾然一体、一者と把握し、それがそのまま理であるとした。

 心は一つの心である。理は一つの理である。孔子が「吾ガ道ハ一モッテ貫ク」といい、孟子が「道ハ一ナルノミ」といったのはこのことだと主張した。
もっとも「心即理」の思想は象山というより程明道からでたものであったが、象山が朱子と論争することにより広まった。

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聖人になるために、格物窮理、すなわち事物の理を窮めるという手段の前提には、程明道の「万物一体の仁」があり、一気・陰陽・五行、事物は気でできているという考えがベースにある。そして、四書六経の「大学」「中庸」、「易経」から取ってきたものである。

ここにシナ的人間の特徴、教条主義的で、真偽は二の次、パクリっても白を切る・・が3千年の伝統として、今も私たちの理解を超える特性として、日々見ることができるわけである。