私は日本がすきである。
「なぜ好きか?」と聞かれるとすぐには返事ができない。それでも少し詳しく「どのように好きか」を説明していくことで、ことによると、「なぜ好きか?」がわかってくれるかもしれないから。
私はこの国土の景色が好きである。柔らかくて、こまやかで、変化に富んでいて、木の葉にもにおいがある。私は外遊して、このくにを外からみた経験は一度しかないのだが、そのとき、フランスから帰ってきて、電車で郷里の谷あいにはいると、ちょうど五月であったが、木の葉のよいにおいがした。電車を降りて、峠(和歌山県、紀見峠)への道を歩くと、日はもう暮れていたが、むせるような甘い若葉のにおいがした。フランスにはこのにおいがないのである。私は自分のくにに帰ってきたのだという気がした。
はえている植物はみな好きだし、咲く花もみな好きだし、木の葉の彩りの変化も好きである。それに、このくにには四季のこまやかな変化がある。四季みなよい。照る日も、曇る日も雨の日もみなよい。風の日もよい。雨や風には四季によるさまざまの変化がある。風趣を添える動物もよい。
前にも言ったように(「善行」参照)このくにの人たちは、自己本位の行為を善行だとは決して思わない。現にそのように生活している人たちも、内心それを肯定せず、その反対の行為を賛美することを惜しまない。
だからこのくにの善行は格調が非常に高い。たとえば弟橘媛や菟道稚郎子の最期の行為がそれである。格調はこれより多少さがるのもまじるであろうが、そんなことには無関係に、私の好きな行為を、このくにの歴史の中から拾い上げてみよう。
ここで、初めの問いに答えられるようになったからそだけをいっておこう。ーー
私には日本の自然や人の世の一々が非常に「なつかしい」。だから私は日本がすきなのである。
・・ 以上、岡潔著「情緒の教育」- 「愛国」から引用
この自然に対する感性は日本独特のもので、およそ1万7千年つづいた縄文時代の培われたものと思われます。
「世界に誇る縄文文化のお話」
縄文時代 衣服
何か愛国というと、左翼売国奴にとっては軍国主義の代名詞、戦後なりすまし保守にとっては敗戦利得の隠れ蓑となり下がった感があります今日このごろですが、今一度原点に返り、「2万年の歴史と美しい国土、そこで育まれた豊かな文化に誇りを持ち、わたしたちの時代にできることなすべき発展をなし子子孫孫に伝える」、ということ。
・・
言葉というのは、いったん名づけられ辞書に収められると、妄念という彫像に貼られた紙のように本来の意味を失い浮遊をはじめる。
縄文時代の衣服にみられる技術からみて、縄文語はあったのはまちがいなと思われるが、神々の子孫であり神々と一体になることを目指していたとするなら、言語による存在分節からはじまる妄念の世界への堕落こそがはずかしいことだったのかもしれない。
大乗起信論的にいへば、すべての争いは欲望を都合よく存在分節した言葉から始まる。
切り刻まれた欲望を抑えるためにうまれた戒律は、宗教となり、聖書・聖典に言葉として収まったとたんに暴走をはじめた。
皮肉なことである。
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かつて、日本は共産主義思想に洗脳されスターリンのスパイとなった多数の日本人と帝国陸海軍の痴呆売国幹部により敗戦のための戦争を余儀なくされ、多くの犠牲をだし、米国に占領され文化を破壊され骨抜きとなりいまも隷属国となったままだ。
日本人を支配し隷属させるのは難しくなかった。
GHQが作った占領政策の条文を、「日本国憲法」という「名」にするだけでよかった。
なんとも間抜けな無垢さであろうか。
その前文を小学生が読んでも、明らかな絵空事である。
~平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。~
これが実現できるのは、根源的無分節「真如」を悟った国でなければならない。
衆生心しかもたない、我々現世に在する国では実現は不可能、故に空事。
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さて、原人、土人、白熊、赤熊が支配する衆生国に囲まれた、我が国。
国の中枢は、原人、土人の悪性ウィルスに犯され、赤熊の世話に忙しい。
しかし、忙しい合間ではございますが、
1)こうの巧妙な言葉による支配が可能なのは知性が高かったら可能となった、赤熊には予想もしないことだった。
2)この洗脳から自らを解き放つことが可能だ。トリックにすぎない。
を自覚することから覚醒がはじまります。
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ずぶん長文になりすぎたようですので、つづきは次回。