玉川な日々

一日の疲れは玉川に流して・・・

しぼむ、野合新党

2012-10-30 21:04:10 | 左様出尾蛇瑠
久振りに、衆生の混乱につきまして。石原都知事の辞任会見から盛り上がったのですが、時がたつに従って

政局】鹿児島補選は自民党勝利、新党・第3極の方向性は?[桜H24/10/29]

いくら「たちあがれ日本」の衣替えの石原新党とはいえ、党名、綱領、基本政策もはっきりしないのに、第三局連合ばかりが目的のようなニュースが流れています。

水島社長の指摘のように第三局とは、自民の売国派を寄せ集めるための新党でしょうか。石原伸晃、加藤紘一、河野太郎?なら自民を出て行ってくれたら万歳ですね。

泥船三極で「みんなで、たちあがれ、維新、自民親米中派、大連合でございます党」。

略して「新党みたいし連合」。

どんなんでしょ。



さて、つづきは

2012-10-27 16:45:56 | 左様出尾蛇瑠
キリスト生誕からおよそ650年後に預言者ムハンマド(570~632)によって語られたコトバが集められ教皇オスマーンの命により「コーラン」としてまとめられました。

イスラーム教徒ならば誰でも知っている、一日5回正規の礼拝のときに誦ることばは「コーラン」の第一章「開扉」の七節です。

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慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において・・・

一、讃えあれ、アッラー、万世の主、

二、慈悲ふかく慈愛あまねき御神、

三、審きの日の主宰者。

四、汝こそ我らはあがめまつる、汝こそ救い求めまつる。

五、願わくば我らを導いて正しき道を辿らしめ給え、

六、汝の御怒りを蒙る人々や、踏みまよう人々の道ではなく、

七、汝の嘉し給ふ人々の道を歩ましめ給え。


世界中のすべての啓示の書(「旧約聖書」、「新約聖書」とか、今までに人類に下されたすべての啓示の書)に含まれるエッセンスは、残すことなくこの「コーラン」に含まれており、しかも「コーラン」自体のエッセンスは、この第一章「開扉」の章に、残すことなく含まれている、ということです。*1)

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アラビア語で「預言者」とは、文字どおり”神のことばを預けられた人”であって、未来におこることを予言する人ではない。

預言者ムハマンドはメッカで布教をはじめるのだが、7世紀のアラビア砂漠とその周辺はユダヤ教徒とキリスト教徒が盛んで、いまではイスラームの拠点であるメディナはユダヤ人の都で、そこに住むアラブ人にはユダヤ教は誰でも目にし聞くことができるものだった。

そんな中で新しい預言者ムハマンドは、ユダヤ教、キリスト教徒により迫害されるのだが、その理由は旧約聖書、新約聖書のように聖典が無いじゃないかというものだった。

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「開扉」七節の意味については引用の著作におよそ100ページにおよぶ説明がありますので、興味のある方は原典を参照ください。

しかし、旧約聖書も新約聖書も預言者が死んで後にまとめられた聖典ですね。まとめられるときも編者の意図が入り込み、言葉として聖典におさまると、こんどは勝手な解釈をはじめるのが愚かな衆生というもの。

その一番はげしいのが、仏教でもあります。

結果として預言者は人類に不幸を拡散してしてしまった訳ですが、もちろん預言者に罪はございません。

言語が、妄念を固定化する働きもあることもあることを忘れてはいけない。



引用
*1) 「井筒俊彦著作集」8-コーランを読む、中央公論社

退化の果てに

2012-10-25 20:41:12 | 左様出尾蛇瑠
イエスの教えの中には、「罪と罰」や「報い」といった考え方がないことです。

神と人間との距離関係はすべて取り払われている。イエスにとって、「信仰によって受けることのできる幸福」とは、約束ごとではなく、もっと現実的なものでした。それは「信仰」ではなく、行動する過程できまるものです。

イエスの教えはこうです。自分に悪意をもっている人に対して、言葉でも、心のうちでも、決して刃向わない。外国人と自分の国の人を区別しない。ユダヤ人と非ユダヤ人を区別しない。誰に対しても腹を立てない。誰も軽蔑しない。法廷に訴えることもなく、誰の弁護も引き受けない。離婚はしない。イエスはこれらの教えを実行に移そうとしました。

イエスにとって、ユダヤ人が行っていた儀式やお祈りは、意味のないものでした。そうではなく、イエスの教えを実践することによってのみ神に導かれるのです。こうして、イエスは、「罪」「罪の許し」「信仰」「信仰による救い」といったユダヤ教の教えをすべて否定しました。

キリスト教は、現実に反抗するという本能をもっています。それがキリスト教の根っこです。キリスト教は諸悪の根源です。キリスト教は、人間にとって害があるからこそ、力を持つ宗教なのです。このような隠れ蓑をまとったキリスト教徒のサル芝居を、神々も遠い空からながめているのでしょうか。地球という小さな星は、キリスト教という奇妙な宗教があるだけで、神々が注目するには十分なのかもしれませんね。しかし、サル芝居とは言いますが、はたして彼らはサルよりもましなのでしょうか。それは疑問ですね。「人間はサルから進化した」というダーウィンの進化論も、サル以下の彼らにとってはお世辞になってしまうかもしれません。*1)

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ボス猿がメスを独占することにより進化していたのに、自由とか平等とか寝言をいいだして、邪教にはまって退化したのでございましょうか?


参考
*1)「キリスト教は邪教です! 現代語訳「アンチクリスト」」F・W・ニーチェ、適菜収訳

日本人の育て方

2012-10-18 22:57:36 | 左様出尾蛇瑠
このごろの中学生は、ひとり、ひとり別々であって、相互に親しみを持ち合わない。また先生にも近づいてこない。

一人の生徒にたいして、他の生徒はみな、競争相手なのである。

このことはできる生徒たちの間でとくにはなはだしい。

一、二番を争っている場合には、相手が病気になれば喜ぶ。その母も喜ぶ。死ねばいいなどという。

その母もいう。こんなことは他人に聞かれると恥ずかしいことなのに、平気でいうのである。

夜こどもは、テレビも見ないで家で勉強する。母は別室でテレビを見ている。翌朝こどもが学校へ行こうとするとき、母は昨夜のテレビの筋を教える。こどもは学校へいって、さも自分でそれを見たかのように相手に話す。相手はつい、真にうけて、それならばというので、その夜は自分もテレビを見る。こどもはそのすきに自分だけ勉強する。こんなふうである。

生徒たちは、親しみのほうはまるで持たないが、集団のほうならば直ぐつくる。

五、六人集まっている前を女の先生が通ると、「先生ベッピンやな」「わしゃ好きや」などと口ぐちに放言する。

このごろの生徒たちが集まっていると、なんだか恐ろしくてぼくでも近よれない。

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これは1964年3月から7月にかけて産経新聞に23回連載された「片雲」の中の一文で、岡潔が友人の話として大阪の中学の先生の話を紹介しているところである。

いまどきのニュースを賑わす「いじめ」に比べると長閑で平和といえるかもしれないが、学校を修羅場にしているのは当時の親のさもしい根性であるのはわかる。

まだ若い子供の親で、我が子をどう育てたらいいか悩んでいる人が、もしいたとしたら、岡潔の「情緒の教育」を一読することをお勧めする。

岡潔の世界的な数学上の業績はもちろんのこと、晩年に情熱をかたむけ、「日本人とは何か」ということを深く追求し執筆、講演をしたことである。

東洋哲学、意識論、仏教、脳と意識、などから具体的に日本人はこうして育てろと指摘しているところで、概略を簡単にのべると

2~3歳まで : 衝動を抑えることを教える
4~7歳ごろ : 自他の区別ができるようになるので自我を抑えることをおしえる
8~9歳ごろ : 情操の育つときなので、清く、豊かな情操教育をする(ここで自我を抑えることが効果をあらわす。ピアノのような機械的な修練はまったく逆効果となることもある)
10~12歳 : 前頭葉が命令し記憶するという訓練をする

詳しくは、「情緒の教育」をお読みください。

・・

現在の義務教育はまったく脳の発育を阻害するような、側頭葉(記憶)偏重教育である。

歴史を知れば知るほど、すばらしい先輩がたくさんいて、日本人に生まれたことに感謝するようになるでしょう。








「愛国とは何?」から始めて

2012-10-14 18:09:52 | 左様出尾蛇瑠
私は日本がすきである。

「なぜ好きか?」と聞かれるとすぐには返事ができない。それでも少し詳しく「どのように好きか」を説明していくことで、ことによると、「なぜ好きか?」がわかってくれるかもしれないから。

 私はこの国土の景色が好きである。柔らかくて、こまやかで、変化に富んでいて、木の葉にもにおいがある。私は外遊して、このくにを外からみた経験は一度しかないのだが、そのとき、フランスから帰ってきて、電車で郷里の谷あいにはいると、ちょうど五月であったが、木の葉のよいにおいがした。電車を降りて、峠(和歌山県、紀見峠)への道を歩くと、日はもう暮れていたが、むせるような甘い若葉のにおいがした。フランスにはこのにおいがないのである。私は自分のくにに帰ってきたのだという気がした。

 はえている植物はみな好きだし、咲く花もみな好きだし、木の葉の彩りの変化も好きである。それに、このくにには四季のこまやかな変化がある。四季みなよい。照る日も、曇る日も雨の日もみなよい。風の日もよい。雨や風には四季によるさまざまの変化がある。風趣を添える動物もよい。

 前にも言ったように(「善行」参照)このくにの人たちは、自己本位の行為を善行だとは決して思わない。現にそのように生活している人たちも、内心それを肯定せず、その反対の行為を賛美することを惜しまない。

 だからこのくにの善行は格調が非常に高い。たとえば弟橘媛や菟道稚郎子の最期の行為がそれである。格調はこれより多少さがるのもまじるであろうが、そんなことには無関係に、私の好きな行為を、このくにの歴史の中から拾い上げてみよう。
 
 ここで、初めの問いに答えられるようになったからそだけをいっておこう。ーー

私には日本の自然や人の世の一々が非常に「なつかしい」。だから私は日本がすきなのである。

・・ 以上、岡潔著「情緒の教育」- 「愛国」から引用

この自然に対する感性は日本独特のもので、およそ1万7千年つづいた縄文時代の培われたものと思われます。

「世界に誇る縄文文化のお話」

縄文時代 衣服

何か愛国というと、左翼売国奴にとっては軍国主義の代名詞、戦後なりすまし保守にとっては敗戦利得の隠れ蓑となり下がった感があります今日このごろですが、今一度原点に返り、「2万年の歴史と美しい国土、そこで育まれた豊かな文化に誇りを持ち、わたしたちの時代にできることなすべき発展をなし子子孫孫に伝える」、ということ。

・・

言葉というのは、いったん名づけられ辞書に収められると、妄念という彫像に貼られた紙のように本来の意味を失い浮遊をはじめる。

縄文時代の衣服にみられる技術からみて、縄文語はあったのはまちがいなと思われるが、神々の子孫であり神々と一体になることを目指していたとするなら、言語による存在分節からはじまる妄念の世界への堕落こそがはずかしいことだったのかもしれない。

大乗起信論的にいへば、すべての争いは欲望を都合よく存在分節した言葉から始まる。

切り刻まれた欲望を抑えるためにうまれた戒律は、宗教となり、聖書・聖典に言葉として収まったとたんに暴走をはじめた。

皮肉なことである。

・・

かつて、日本は共産主義思想に洗脳されスターリンのスパイとなった多数の日本人と帝国陸海軍の痴呆売国幹部により敗戦のための戦争を余儀なくされ、多くの犠牲をだし、米国に占領され文化を破壊され骨抜きとなりいまも隷属国となったままだ。

日本人を支配し隷属させるのは難しくなかった。

GHQが作った占領政策の条文を、「日本国憲法」という「名」にするだけでよかった。

なんとも間抜けな無垢さであろうか。

その前文を小学生が読んでも、明らかな絵空事である。

~平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。~

これが実現できるのは、根源的無分節「真如」を悟った国でなければならない。

衆生心しかもたない、我々現世に在する国では実現は不可能、故に空事。

・・

さて、原人、土人、白熊、赤熊が支配する衆生国に囲まれた、我が国。

国の中枢は、原人、土人の悪性ウィルスに犯され、赤熊の世話に忙しい。

しかし、忙しい合間ではございますが、

1)こうの巧妙な言葉による支配が可能なのは知性が高かったら可能となった、赤熊には予想もしないことだった。

2)この洗脳から自らを解き放つことが可能だ。トリックにすぎない。

を自覚することから覚醒がはじまります。

・・

ずぶん長文になりすぎたようですので、つづきは次回。