「世の中に真の人やなかるらん限りも見えぬ大空の色」
道元が、執権北条時頼の招きにより鎌倉に半年滞在したとき、菩薩戒とともに送った十首のひとつである。「真の人」は仏教を真に学ぼうとする人で、そういう人が世にいるものの、大空の色が青くどこまでも深いように「真」もはてしなく、究めるのは容易ではない。という内容で、四十七歳の道元が、二十歳の時頼に、若かりし日の自分が建仁寺に入った頃の思いと、宋の禅僧でさえ先師如浄のような真の人は稀だとの実感が入っている。
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明全一行が宋の天童山景徳寺をめざして京都建仁寺を出発したのは1223年の2月末で、三月下旬南路(種子島、奄美大島へ南下し東支那海を横断する)で明州慶元府に着いたのは四月はじめで、途中台風に合い船内が水浸しになり、それを手桶で掻きだすのも間に合わない、船がこわれかかり、道元は何度も吐きながら、船も幸いにしてもちこたえた命がけの航海だった。明全はすぐに上陸できたが、道元らは天童山掛錫の手続きのため三カ月船で待機をよぎなくなれた。晴れて許可が下りて掛錫すると、明全、道元は辺夷外国の人という扱いで末座に遇せられた。
この不条理な扱いに道元の真価が発揮される。直接天童山侍局抗議したが却下され、道元はおさまらず、皇帝寧宗へ直訴上奏の挙に出る。
仏法沙界に偏く、威光十万を照らす、わが国(日本)はすでに仏国、人はみな仏子。国の名、中外で差別するとは何事か、仏教は政治の外にあると、訴えた。道元は、得意の漢文で抗議する。すると、帝は表を見て道理ありとし、「倭僧の表、まことに正理あり。これを案ずるに戒位仏制をみだすなかれ、天童すなわち綸旨(りんじ)に応えよ」と勅して聴許されたという。
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道元は、修行に励むとともに、正師をもとめて天童山を出て遍歴するうちに、釈尊の正法の核心がどこにあり、それがどのゆおにして正しくつたえられるのか、さらに悟りの実体にどのように迫ればよいのかを知るために、直接嗣書から学びたいと志して見せてもらった。最初に、臨済宗の開祖臨剤義玄から四十五代の名が連なった嗣書だった。また、雲門宗の嗣書も見せてもらったが、書式が甚だしく違うことに気が付き、天童山の首座(雲水の主席)に理由を尋ねた。すると、「大切なのは悟りそのものであって、嗣書の様式ではない。」と教示される。そして嗣書には由緒正しいものから、得法のいかんにかかわらず買収して作らせたものや、書式のでたらめなものまで、仏法とは名ばかりの腐敗した現実をみることとなった。
道元が巡錫した諸山は、北は杭州の径山から、南は台州、温州のおよぶ。杭州の五山第一の名刹径山の興聖万寿寺では禅問答と臨済公案を学び、台州天台山の万年寺(この寺は栄西が山門を寄進した、ゆかりの深い禅寺)ではりっぱな嗣書はあったが、道元のめざす古風な禅風はみられず、貴族に迎合する禅風で、弟子になるように勧められたが辞去した。明州の大梅山護聖寺、台州の小翠岩、温州の雁山能仁寺を尋ねたが見聞が広まっただけであった。このまま、日本に帰ろうかとおもったとき、径山羅漢堂の前で一人の老人から天童如浄のことを知る。巡錫に失望して天童山に帰る途中であった。
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道元が天童山に戻り、如浄に相見したのが1225年5月1日、道元25歳、如浄62歳であった。如浄の修行は、朝は二時半、三時頃から夜は十一時ころまで坐禅するというきびしいものだった。居眠りするものがあれば拳で打ち、あるいは履をぬいで打つ、これは仏に代わって打つもので許せと詫びるので、衆僧も涙する。
兄弟子の明全が病に倒れ、正身端坐のまましずかに入寂したのが五月二十七日である。
たとい発病して死ぬべくとも、なおただこれを修すべし。病まずして修せずんば、この身労しても何の用ぞ。病して死なば本意なり・・修行せずして身を久しく保ちても詮なきなり。何の用ぞ。
明全の示寂を見送った道元の思いであった。
道元の開悟は、夏の風のない夕方だった。道元の隣で坐禅する僧が、耐えがたい眠気に襲われて、思わずあくびをした。とたんに、僧の右肩に発止と警策が打ちおろされ、
「参禅はすべからく身心脱落なるべし、只管に打睡して什(いんも)を為すに耐えんや」と、如浄の大喝が飛んだ。
道元は座を立ち、如浄の方丈に参じて、焼香礼拝した。如浄が見たところ、道元の面上ただならぬ清光が感ぜらる。如浄はただちにその意味を悟った。
「焼香のこと、作麼生」
如浄は誘導の口火をきった。
「身心脱退し来る」
道元は、打てばひびくように答えた。
「身心脱落、脱落身心」
如浄は力のこもった声で応じた。そして、
道元「みだりに印することなかれ」
如浄「われ、みだりに印せず」
道元「いかなるかこれ、みだりにそれがしを印せざるの底」
如浄「脱落身心」
このとき如浄から道元への嗣法の単伝はみごとに完了した。
九月十八日、侍者広平、知客宗端らを従えて、如浄主宰の伝戒の儀式が営まれた。
仏祖正伝菩薩戒脈が道元に授けられた。
「大宋宝慶元年乙酉九月十八日、前住天童如浄和尚示して曰く、仏戒は宗門の大事なり。霊山・少林・曹渓・洞山みな嫡嗣に付し、如来より嫡々相承して吾に到る、今弟子日本国僧道元に付法す、伝付既に畢んぬ」1)
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道元が開悟したとき、蝉が羽化するとき幼虫の背が二つに割れるように、道元の背は縦に裂け、真っ白な肉が見えたという。
今わたくしたち門徒が永平寺に参ると、修行僧が観光ガイドとしてやさしく案内してくれる。
寺の壁には、
一、われら共に、仏子として正信に目覚める
二、われら共に、行持を怠らず節度守る
三、あれら共に、報恩を旨とし温かい心で人に接する
四、われら共に、水道、電気をはじめ物の扱いに気を付ける
五、われら共々に心平静にして、そのところに落ち着く
中学生の合宿所のようにわかりやすい訓もある。
総本山は、大衆化し沢山の観光客が喜んで下さる施設となりました。曹洞禅の隆盛に、さぞ禅師も涙を流してお慶びではないかとお察しいたします。
誠に有難きことです。
参照
1)「道元」倉橋羊村著、講談社