変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー



あなたのアイデンティティは?
と聞かれたなら、ボクにも幾つかの答えはある。

もう少し掘り下げてみる。

それらは何に立脚しているのか。

自らの努力で得たもの?
生まれながらに持っていたもの?

どちらに立脚したものなのかが
人間性に大きく関与しているように思う。

アイデンティティは、
自尊心と極めて密接な関係にあるものだ。

自らの努力と
それによる成長から得た自尊心というのは、
大らかで、
謙虚で、
相手を慮る素養がある。

なぜなら、その道程における大変さや、
周囲の人達や社会との関わり、
挫折と挑戦、持ちつ持たれつ、
要は、人の生き様そのものの積み重ねであり、
成長という変化の中で紡がれるものだからだ。

対して、与えらたものだけに依存する場合、
自らには何も無い。
端的な例は、生まれ持った国籍だ。
親の国籍と、その国の法律だけに依存する。
大切に思ったり、尊ぶのは構わないが、
誇りを持つものではない。
いや、
誇りに思っても良いが、
それは先祖や自分以外の人間や社会への
周囲・他国からの評価への誇りであって、
自らの自尊心を満たすものでは無い。
だから、感謝という形に具現化すべきものだ。

得てして、
自らの努力で得たものに誇りが持てない人程、
与えられたアイデンティティを美化し、
更に、他を貶めることによってその地位を
盤石たろうとする。
この負のサイクル自体も、他者に責任を
押し付けようとする。

情けない。
子供の所業だ。

ボクは、努力することが好きな人間ではない。
自ら得たものなんて、特にない。
だって、一人で成しえたものなんて無いし、
全てが過程でしかないのだから。

でも、少なくともこれだけは言える。

人を傷付けることで精神の安寧は得られない。
他を蔑むことで得られるもの等無いし、
決してそれは正当化されない。
どんな理由があっても、だ。
他人を悪者にしても、誰も守れない。

ボクも社会の幼さを嘆く世代になったという
ことだろうが、ちょっと最近の世情は
度を過ぎているように思う。

どうすれば良いかは、
実は簡単な気がしている。

言葉を大切にすることだ。

意味を、
内容を、
しっかりと理解しようと努力することに
繋がるからだ。

これは成長に直結する。

自分の言いたいこと、
自分を守ること、
それらを言葉にすることだけに
躍起になってはいけない。

色んな立場の人が、
平気で嘘をつく時代になってしまったのだから、
今一度、言葉を大切にし、
その意味する事、
託された心、
背景や心情、
そういったものに心を馳せようと思う。

今まで以上に。

我が子に、
次の世代に、
この国の将来の為に、
都合の良し悪しだけで言葉を紡ぐことは
厳に慎みたい。

寒空に感じた事でした。



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