空飛ぶ自由人・2

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「黒澤明と『赤ひげ』」

2022年06月23日 23時00分00秒 | 書籍関係

[書籍紹介] 

都築政明氏による、
黒澤映画の解析本。
「黒澤明と『七人の侍』」(1999)の好評により、
次に書かれたのが、2000年刊行された、この本。
この後、「黒澤明と『天国と地獄』」(2002) 、
「黒澤明と『生きる』」(2003)、
「黒澤明と『用心棒』」(2005)に続く。

「赤ひげ」は、1965年(昭和40年)4月3日に公開された作品。
モノクロ、シネマスコープで、上映時間は3時間5分。
途中に休憩が入る。

原作は山本周五郎「赤ひげ診療譚」で、
貧しい病人のために尽くす養生所の医師と、
エリート医師を目指していた青年との交流、
貧困と病苦に苦しむ貧しい人々の姿を通して、
人間の尊厳を描き出していく。

主人公の青年、保本登(加山雄三)は、
3年間の長崎での医術の勉強を終えて、
幕府の御番医になり、御目見医の席が与えらるとの
期待を胸に江戸に戻って来た。
しかし、派遣されたのは、小石川養生所だった。
それは、享保の改革で徳川幕府が設立した貧民のための病院で、
収容されているのは、貧しい人々ばかり。
まさかそんなところに押し込められるとは思っていなかった登は、
小石川養生所の所長で赤ひげと呼ばれている
新出去定(にいできょじょう:三船敏郎)に徹底的に反抗する。

しかし、座敷牢に隔離されている美しい女に籠絡されて
命を失う危機を経験し、
怪我をした女人足の手術に立ち会って
余りの凄まじさに失神したことで、
まず鼻をへし折られ、
その後も、入院患者たちの死に立ち会う中、
赤ひげの医師として真摯に立ち向かう姿に、
次第に感化されていく。

その一つが蒔絵師の六助の死
末期ガンで危篤状態の六助の死について、
赤ひげは
「人間の一生で、臨終ほど荘厳なものはない。
それをよく見ておけ」
と言うが、登には薄汚い老人の死は醜悪にしか見えない。
しかし、六助が死んで、
訪ねて来た娘おくにから
六助の不幸な一生を聞いた時、
不幸を黙々と耐え抜いた人間の尊さを知り、
死を醜いと感じた自分を恥じるのだった。

また、車大工の佐八が死の床で語った、
妻・おなかとの悲しい物語を聞いて、
胸に迫るものを感じた。
佐八は、病気の体をおして、仕事で金を稼ぎ、
その金を貧困層の仲間のために使っていた。
それは、みな、おなかに対する供養だった。

裕福な環境で育った登にとって、
想像も出来ないような、
貧しい庶民の真摯な生き方を知ることで、
赤ひげが言った、
「病気のかげには、いつも人間の恐ろしい不幸が隠れている」
という言葉が胸に蘇る。
そして、「人間を貧困と無知のままにしておいてはならぬ、
という法令が一度でも出たことがあるか」
という赤ひげの怒りに、初めて共感を覚える。
その結果、登は拒んでいた養生所のお仕着せを身につけるようになる。

ここまでが前半。
六助の人生の苦しみを初めて知った登が、
「おとっつぁんは死ぬ時に、苦しんだでしょうか」
と訊く娘・おくにに
「いや、安楽な死に方だった」と赤ひげが答えた時、
「そうでなくっちゃ、そうでなくっちゃ、
おとっつぁんの一生は、ひどすぎますもんねえ」
という、おくにの言葉に、
登は、はっとして六助の死の情景を思い出す。
佐藤勝の音楽に乗って、
六助の臨終の様子が浮かび上がる。
この場面で、高校生だった私は落涙した。


この時、おくにを演じた根岸明美は、
8分33秒を一人語りで演じ、本番1回でOKにした。
しかし本人は、そのラッシュのフィルムを見ている最中に
撮影中のことを思い出して感極まり、
試写室を飛び出してしまった。
以来、映画本編を一度も見なかったという。

後半は登とおとよの物語。
外診に出かけた岡場所で、
虐待されていた12歳の少女・おとよを救い出し、
赤ひげは、この娘は身も心も病んでいるから
お前の最初の患者として癒してみろ、
と登に預ける。
おとよは、子どもの頃から不幸な目に遇い過ぎて、
恐ろしく疑い深く、他人を寄せ付けない娘であった。
登は自室でおとよを昼夜もいとわず看病を続け、
やがておとよは次第に心を開き、
登が高熱で倒れた時には枕元で必死に看病する。
その後おとよは、あるきっかけから
長次という7歳の男の子と知り合う。
その日の食う物にも事欠く長次のために、
自分の食事を減らしてまで分け与えるまでに心は優しくなっていった。
だがある日長次の一家が心中をはかり、
養生所に担ぎ込まれてきた。
貧しいゆえの所業であったが、助かる見込みは無かった。
おとよは、井戸の中にその名を呼べば呼び戻せる言い伝えを信じて、
必死で井戸の中に向かって長次の名を呼ぶのだった・・・

登はもはやかつての不平不満ばかりを並べる人間ではなかった。
赤ひげの唱える貧民たちへの医術に生き甲斐を感じ、
長崎留学中に自分を裏切った許婚者を許せるまでに成長していた。
そしてその妹と夫婦になることとなり、
その内祝言の席で、
登が幕府のお目見得医に決まったことを告げられるが、
登は、小石川養生所で勤務を続けたいと宣言する。

ラストシーンは、ファーストシーンと同じ養生所の門前。
赤ひげは登に「お前は馬鹿だ。必ず後悔するぞ」と忠告するが、
登は「試してみましょう」と答える。
初めて来た時は、地獄の門に見えた養生所の入り口は、
今の登には、素晴らしい門に思えるのだった。

黒澤明監督は
「日本映画の危機が叫ばれているが、
それを救うものは映画を創る人々の情熱と誠実以外にはない。
私は、この『赤ひげ』という作品の中に
スタッフ全員の力をギリギリまで絞り出してもらう。
そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる」
と熱意を込めて作り、
そのとおり、シナリオ執筆に2年、撮影に1年半もの期間をかけ、
「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」などで確立した、
1シーン1カットの撮影方式を用い、
俳優の感性を極限まで高めての撮影で、
見事な完成度の映画に仕上げた。
1シーン1カットとは、
演技を途中で中断せずに1シーンを一貫して演じさせ、
それを複数のカメラで撮影して、
編集段階でカット割する方式。
それにより、俳優の感情を
継続して維持できる。
そのために入念なリハーサルをし、
最も俳優の気持ちが高まった時に一挙に撮影する。

物語は山本周五郎の「赤ひげ診療譚」を基盤としているが、
後半のおとよの物語は
ドストエフスキー「虐げられた人びと」をベースにしている。
「虐げられた人びと」は、
新進作家ヴァーニャが魔窟の娼家から救い出した、
身も心もボロボロになった少女・ネルリを回復させるストーリー。
医者が飲ませる薬のサジをはねのけるエピソード、
看病で疲れたヴァーニャが倒れると、
ネルリが今度は徹夜で看病するエピソード、
茶碗を叩き落として割ったネルリが
橋の上で物乞いをして金を集めて茶碗を買い、
ヴァーニャが声をかけた瞬間、手元から落として割ってしまうエピソード、
ネルリがヴァーニャの恋人ナターシャに嫉妬するエピソードなど、
原作者にドストエフスキーの名前を冠してもいいくらいに、
「虐げられた人びと」から取り入れている。

黒澤監督は、最初にベートーベンの「第九」をかけて、スタッフに聴かせ、
第4楽章の合唱で、
「最後にこの音が出なかったら、この作品はだめだぞ」
と言ったという。
そんなことを言われて一番苦しんだのは、
作曲担当の佐藤勝だろう。
なにしろ、ベートーベンである。
どんな音楽を書いたらいいのか。
結果として、佐藤勝は素晴らしい映画音楽を生み出す。
むしろ、ブラームスの「第一」に似たものだが、
映画の持つ気高さ、荘厳さを示すメロディーである。

https://youtu.be/R33FcoHPlsA

三船敏郎は、生涯最高の演技。
加山雄三は、本作で演技開眼、
おとよを演じた14歳の二木てるみ
長次を演じた8歳の頭師佳孝
佐八とおなかを演じた山崎努桑野みゆきなど、
素晴らしい演技を黒澤明は引き出した。

黒澤が強調するのは、
日本映画の強敵はテレビではない。
映画には映画の美しさがあり、
その原点に帰るべきだと主張する。
黒澤は言う。
映画とは「“生きる力”を与えてくれる」ものでなければならない」
「主人公は、観客を元気づけるものでなければならない」
「映画というものは、
観客が映画館から出てきた時、
力がみなぎっているようなものでなければならない」
今の映画人が、これを聞いてどう思うだろうか。
「古くさい」と言うのだろうか。
しかし、日本映画が
そういう志で臨んでいた時代があったということは、
認めなければならないだろう。

都築氏は書く。
『赤ひげ』の主題は、
人間への信頼をベースにした“人間の尊厳”であり、
それを黒澤はベートーベンの第九の奏でる“荘厳”に譬えた。
赤ひげの貧民たちへの没我的な愛、
厳しい試練に耐え抜いて医師としての使命に目覚める登、
江戸のどん底に喘ぎながらも
人間としての矜持を持って美しく生きる庶民、
そこに黒澤の限りない人間への信頼と、
醜悪な現実を突き抜けた人間の尊厳とがあり、
それらは人間存在を崇高な何かに止揚する、
まさに“荘厳”な響きがそこから高まってるるのである。

さらに書く。

『赤ひげ』は、人間を励まし、勇気を与え、
啓蒙し、導き、“生きる力”を与える
映画の中の映画であり、
黒澤ヒューマニズムの最高の精華である。

映画を観た原作者の山本周五郎が
「原作よりいい」と言った。
そして、その年のキネマ旬報ベスト・テンで第1位に選ばれたほか、
第26回ヴェネツィア国際映画祭で男優賞(三船敏郎)、
サン・ジョルジョ賞などを受賞した。

都築氏は、あとがきの中で、
黒澤の偉業が
忘却という非情な波に洗われ、
浸蝕され、風化し続けていることを嘆いている。

実は、私はこの本と並行して、
「赤ひげ」を20年ぶりくらいに観た
高校生の時に観て以来、
カミさんに見せた時の1度しか観ていない。
それは、あまりに感動した作品が、
後で観たら、それほどでもなかった、
というような経験を味わいたくないからだった。
今回、改めて観て、
監督が言うとおり、
黒澤映画の集大成だったことを感じた。
それと共に、やはり黒澤明の最高傑作であることも確信した。
この時、黒澤は55歳。
映画監督として、最も脂の乗り切った時である。

しかし、集大成をなしてしまった監督は、
その後、どうしたらいいのか。

「赤ひげ」に続く
「どですかでん」(1970)、「デルス・ウザーラ」(1975)、
「影武者」(1980)、「乱」(1985)
「夢」(1990)、「八月の狂詩曲」(1991)、「まあだだよ」(1993)
は、私のようなコアな黒澤ファンを満足させるものではなかった。
やはり、「赤ひげ」は、
黒澤映画の集大成、代表作、最高傑作と呼ぶにふさわしい。



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