カトリック高円寺教会ANNEX

2004年に晴佐久昌英神父様により成人洗礼をうけた『おやじ』の[信仰告白]風コラム

『伝えること』

2006-07-05 12:24:22 | Weblog
 「今回の件は早急に相手先様に謝罪に行くからアポイント調整して」



 「はぁ、でもメールで丁寧に謝っておきましたので。」


  ?



 29歳のスポーツ選手が自らその環境から退く決意をした。



 すべては自身のホームページでコメントしているので記者会見等する予定が無いのだと言う。


 ??


 
 「久しぶりに昔の友達に会ったんだけど、ケイタイの番号やメルアド教えるのウザイからMixi(ミクシィ)にしたの。友達続けるかわからんないから。」


 ???





 「ブログや~めた。」っていう仲間がいる。



 「なんだよ~、結構好きな文章だったのに~。なんでやめちゃったの~。」



 「う~ん、読んでくれてる人のこと意識し始めちゃったのから。

  それと仲間のこと書くのがほとんどだし、書くのもったいないっていうか、直接言いたいから。」




 
 やっぱりメールや活字じゃなくて、感謝の気持ちを伝えたいから直筆のお手紙をくれた人もいる。




 社内メールで「お前さぁ、その文章優しさね~じゃん。冷たい文章書くなよ。」ってことも度々ある。こういう文章を書く人は毎回こうなる。


 もちろん実際に怒ってたり、クレームのアピールだったりする場合は「激しい文章(口調)」になっちゃうけど、営業なんかを長くやってるとよくわかるんですよ。


 「品格」とか「懐の太さ」みたいなものが。




 人はなぜ怒るのか。


 なぜ嫌な気持ちになるのか。


 それは


 情報を発信する側の



 『伝えること』への努力が足りないからじゃないかなって。






 ぼくらの住むこの国には


 「行間を読め」とか


 「みなまで言わせるな」とか


 「そこんとこ察してよ」とか


 「謙遜の美学」とか


 「わび」と「さび」とか


 「男はだまって○○ビール」とか


 「おやじの背中」みたいな




 「あいまいさ」で


 かなりの物事が成り立っている。




 ぼくはよく怒られる。


 「ちゃんと説明してよ。わかるように話してよ。」と。


 「ブログに逃げ込むな。」と。


 「ほんとうに大切なものがわかってない。」と。



 完全な説明不足、努力不足。



 謝るしかない。






 なかなか相手の望むことを望むタイミングで望む内容で

 『伝えること』は

 難しい。



 ましてや「尾ひれ」や「背びれ」や場合によっては「ターボエンジン」までくっつけられちゃって挙句にその一部分だけ電子顕微鏡で拡大されちゃったりして。


 「一見かっこよく見えるけど、近くによってよく見たらブサイクじゃん。」


 「あんたのその言葉。それと、あんたもね。」みたいな。



 だからって理論って武器をふりかざして武装してみたり


 夏なのに高価な毛皮で着飾るようなことをしたり


 遠まわしに攻撃しちゃってはいけない。




 「伝えたいこと」



 『伝えること』


 難しい。





 「♪キリストのように考え

   キリストのように話し

   キリストのように行い

   キリストのように愛そう♪」




 神に感謝。
Copyright© 2006 Luke8488