kyon's日誌

つれづれに・・・

叔母の娘の経過

2018年03月20日 | 日記

昨日は叔母の娘が入院する病院に行きました。
というのも、腕時計とフェイスシェーバーが欲しい(カミソリで良かったのだが、それは病院で許可していないということらしく)・・・てなことで、亭主が一人で調達に行くのが不安だったからワタシを伴い、買い物をして届けた・・・
で、一般病棟(4人部屋)に移ってからはじめて彼女に会うことになった訳だけど、丁度フェイスシェーバーの説明をしてる時だったのだけどそこへ担当医師が前日の検査結果を伝えに来たところに出くわした訳で、、手を止めて医師の話をその場で聞くことになった。
曰く、心筋梗塞になった右心房と左心房の壁はやはりそのままであること、漏れ出して心臓の周りに残っていた血液も固まったというのか?専門的な言い方で忘れたけど・・・が、それは良しとして、漏れた方の左心房の下に妙な膨らみが出来ているという状態で、その袋状の膨らみが大きくなれば破裂する可能性もある・・・故に手術の可能性も出てきた・・・という報告。。。

う~む・・・
一度壊れかかった臓器・・・中々一筋縄ではいかないものなんですね・・・叔母にはまだ知らせてない。叔母は自分の体調管理の為に自分の医者に通っていて、医者はもういいですよなんて言っても、本人が不安なので通うという・・・亭主の言い方では、自分が医者だもの・・などと(笑)ま、亭主の口から昨日の手術の可能性ありの話はするだろうけど。

先だって、曽野綾子さんの「私の危険な本音」というのを読んだが、認知症云々、なってから如何致そうか、ならないようにするにはあれがイイこれがイイなどと言われているが、結局、普通の生活の中で毎日普通にするべきことをし続ける、少しの無理や難儀があってもやり続けるという自立した暮らしをする覚悟が老人にも足りない・・・というようなことを書かれていた。
彼女の様々な考え方が書かれた本の内容全てに賛同する訳ではないが、こと、老後や介護、認知症云々についての下りはワタシも思うところでかなり一致している・・・と、感じた。
自分も母の介護に関わって数年になるが、この間に様々な老いの在り方のようなものも考えさせられることも多く、普通に生活の中で自分らしい暮らし方が出来ていたら自然でそれが一番心地いいことなのだろうと感じていた。

我が母のようにマイペース型で娘から見ても我儘にしか感じられないような生き方は、今のような介護状態になると厄介ではあるが、彼女の中ではそのマイペースを続けられた方が自然死に近い状態でそこに向かえるのではないかと感じている・・・
で、
例えば、叔母の場合、たった一人の娘が大病で入院生活が長くなると、やはり自分の年代(90歳)が足を引っ張るような生活にならざるを得ないが、そのお陰と言っては何だが、ある意味での緊張に寄る張りのようなもの・・・しっかりしなければならないとか、そうならざるを得ない状態、勿論助けてもらう部分も多くなるし、自分も無理が続くようになる困難さもあるが、
ボケさせない・・・という効果があるのだわね・・・と、感じている。
つまり、ある意味では自立している訳です。勿論、近所やワタシらのような従妹や親戚の世話になることは増えて心苦しいのはあろうけど、一方で自分、生活を維持出来る訳です。そうして命が追い付かない時は仕方がない訳だけど・・・残されたものは大いなる迷惑も被ることもあろうが・・・
ボケた老人を作らない社会の在り方も必要なのだろうと・・・このところ少しボンヤリと思ったりしたのです。

コメント (6)
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