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森の空想ブログ

百姓の釣り・山人の釣り[九州脊梁山地:ヤマメ幻釣譚<127〉]

先日、私は作家・開高健(1930-1989)が渓流の餌釣りを

――百姓の釣りである。

と表現したことを

――渓流釣りの何たるかを知らぬ虚言である。

と切り捨てた。

開高氏はベトナム戦争を取材した「輝ける闇」で世に衝撃を与え、反戦思想や平和運動の高まりを促し、ベトナム戦争を終結に導く役割の一端を果たした、すぐれたドキュメンタリー作家であった。旅と酒と釣りを愛した文人・開高は、その豪胆かつ磊落な語り口と洒脱な文章で釣りを語り、われわれを魅了したが、深山の釣り師に言わせれば、彼の釣りは

――所詮素人の釣りである。

となるのである。

ルアーを放り込み、ひたすら大物を狙う。それは冒険活劇としては面白いが、細流を遡り、草藪を分け、蜘蛛の巣を払いながらひたすら源流へ、山中他界と境を接する領域へと釣り進む渓流釣りの神秘とはほど遠い。ヨーロッパアルプスを源流とし、森や牧草地の中をゆったりと流れる大河川で発達した釣りと険しい山岳に分け入って釣る日本の渓流釣りとは仕掛けも釣法も異なるのである。彼の釣り文学は洋酒のコマーシャルで鍛えた文体を駆使したエンターテインメントなのである。

だが、そのフレーズは以後の釣人に多大な影響を与え、ルアー釣りやフライフィッシングこそがお洒落でダンディーで上等の釣りであるかのような錯覚と流行のファッションを生んだ。それがまた、釣り道具業界や釣り雑誌の営業を支える骨格となって、

――「場」を荒らしてしまった。

と古風な釣り師は嘆くのである。

これを読んだ上野敏彦さんが、以下の文を寄せて下さった。上野氏は昨年まで共同通信宮崎支局長を務めた方で、現在は本社に戻り編集委員。食べ物と酒と釣りを愛する文人記者である。山の村の神楽宿でともに過ごしたこと、宮崎市の繁華街「ニシタチ」へ繰り出した一夜も忘れ難い。九州脊梁山地の釣りにもお誘いしたが、スケジュールの都合で実現しなかった。

◎百姓釣りが好みである

 毎度、高見乾司さんの秘境釣り記を楽しむ。

 ルアーとかフライをやる連中がファションにも気を遣うのは開高健の影響も大きいのではという。なるほど「リバーランズスルー」何とかという映画もあった。

 私が仙台で暮らした四半世紀前、休みのすべてを山釣りと塩釜のすし哲聞き書きに使った。

 ヤマメはイワナに比べ敏感で、釣りは難しかった。それでも腹が減ると獰猛になる。

 台風が去ったある日、山形県側の沢で滝壺へ川虫を流したところ型のいいヤマメが入れ食いになった。

 当方の釣りスタイルは6・1メートルの竿に30センチの道糸。それにエサをつけて源流の淵にエサを落とす百姓釣りという手法。

 クマに出会ったことはないが、サルの群れに邪魔されたり、滝から落ちることもあってファションに気をつかう余裕などなかった。

 仙山線の鉄橋やトンネルを通るとき、列車が横を通りヒヤッとしたことも。

 高見さんが暮らす宮崎に昨年暮れまで4年半住みながら一緒に渓谷へ行く機会はなかった。それでもFBをシェアさせてもらうと、同じ空気を吸ってる気分になれるのだ。

私(高見)は、ヤマメ釣りは「百姓の釣り」ではなく、「山人〈やまびと〉の釣り」である、と認識している。すなわちヤマメ釣りを「百姓の釣り」と形容すること自体が釣りをレジャーやスポーツとして捉える近代の釣り文化の堕落であると断じて憚らぬのである。

喧嘩腰で訴えるほどのことでもなかろう。

根拠は、以下に示すことが出来る。

◇古い時代には「百姓」すなわち農業生産者はあまり渓流釣りをする機会を持っていなかった。ヤマメが良く釣れる3月、4月は田起こしや田植えの準備で忙しく、田植えが終わると、疲れた身体を癒しに湯治場へ行く。夏は釣れにくいし、台風シーズンに入ってその対応に走り回り、急な出水や洪水の影響もあって釣りどころではない。秋は取り入れ。収穫が終わると「冬祭り」がある。一連の農作業が滞ると、年貢を納められなくなるどころか、一年の食料の蓄えもおろそかとなるおそれがあるのだ。のんびりと釣糸を垂れる時間は限定的なのである。百姓の漁といえば、水路やため池を干し上げて鰻・鯉・鮒・すっぽんなどを総ざらえする「かいぼり」、川そのものの一部をせき止めて干し上げる「川干し」などがあり、大量の漁獲を得た。それは一時のたんぱく源補給の目的であり、村の総出で行う楽しみでもあった。鮒釣りは春先の子供たちの仕事だし、鯉の投げ釣りを辛抱強く見張るのは老人である。夏の早朝、鰻獲りの仕掛けを見回るのは若者の役割だった。このように、百姓がヤマメ釣りをする機会は稀だったわけである。しかも現在のような道路は整備されていない。山道の奥は山賊や鬼神、魑魅魍魎が跳梁する異界でもあった。

◇川が近くを流れている村里は例外だと思われるが、「川漁」をするのは特殊な人たちだとされていた。「サンカ」と呼ばれた漂泊の民は川沿いに移動し、鰻や鮒などの川魚を獲り、里人に売ったり、農業生産物と交換したりした。広島県には大きな川が流れているが、釣りをする人の姿を見かけなかった。調べてみると川漁をするのはサンカだといわれ、差別された時代がこの地方にはあったという。広島県出身の文人・井伏鱒二は長じてアユ釣りやヤマメ釣りを愛したが、幼少の頃は釣りではなく、網漁に親しんだという。その投網を作って売り、季節ごとに訪れて修理してくれるのが山に住むサンカの人たちだったという。中国山地では戦後すぐのころまでは、山里の人でさえ、イワナやヤマメ・アマゴを釣らず、その名さえ知らなかったという例が報告されている。

◇木地師や杣(そま)人など、山に依拠した人たちこそ、ヤマメやイワナを獲った。彼らは、大量のヤマメやイワナを釣り、囲炉裏で乾燥させて保存食とし、一部は里や温泉地へ売りに行った。東北のマタギが冬の熊猟が終わるとこれに従事した例がある。

◇飛騨高山近辺の「職猟師」と呼ばれた人たちは、このような「山人」であったらしい。彼らは、何日に六寸物(17㌢~18㌢)のヤマメを100匹、というその注文通りの型を揃えて釣り、納入したという。彼らの釣り方の基本は餌釣りで、その主たる餌はミミズであり、川虫であった。毛鉤釣りの名人という人もいたが、多くは餌釣りと毛鉤釣りを併用した。水棲昆虫が羽化する時期はヤマメは毛鉤にしか反応しないのである。生態系のメカニズムの中に釣りがある。それが渓流釣りである。

◇木綿糸やナイロン糸が普及する近代まで、釣糸は麻糸を撚り合わせたもの、馬の尻尾、天蚕という天然の蚕から採ったテグス(天蚕糸=てんさんし・てぐす)などを使った。テグスとは、楠蚕、天蚕などの幼虫の体内からとった絹糸腺を、酢酸につけて引き伸ばし、乾かして作った(私も体験例がある)もので稀少かつ貴重なものであった。井伏鱒二氏が通りすがりの女の人の髪の毛を貰い(その人は凄い美人だったという)釣糸の代わりに用いたという話は、飄逸を得意とした文学者独特の修飾ではなかろうか。

◇加藤須賀男という毛鉤釣りの名手が著した「かげろうの釣り」(釣り人社1991)という書物があるが、それによると加藤氏は、毛鉤釣り一筋の釣り人生を送った人だが、毛鉤の極意は「かげろう」の研究にあるという。かげろうの羽化の時期は多様で、その種類や季節ごとの観察と研究を続け、それに応じた毛鉤を巻くというのである。私は、毛鉤釣りは山の村の大人から教わった。ヤマドリやキジ、ヤマバト、鶏などの羽を拾っておき、季節ごとに使い分けるのである。良型のヤマメがよく毛鉤を追って来る日もあり、全く釣れない日もある。私の毛鉤釣りは餌釣りの延長にある。釣りの極致が毛鉤釣りにあるとは思っていない。

ヤマメ釣りは山人(やまびと)の釣りである。山に棲む人たちが、長い年月をかけて工夫を重ね、洗練し、純度を極めた釣法なのである。

単純明瞭なヤマメの「餌釣り」のことを長々と書いたのは、明日、夏の渓谷へ入るからである。この釣行には、初心者4人に中学1年のカワトモ君、ヤマメ釣りに目覚めて自分の竿を仕入れた地元女性の山下さん、これに助っ人として超名人の渓声君が加わる。「夏のヤマメは一里1匹」「ヤマメの土用隠れ」などといわれて釣れにくいうえに大人数の入渓である。しかも真昼の釣りである。釣果ゼロもあり得る。それゆえ、とくに初心の皆さんに対して、ヤマメ釣りの基本を説いておくことにしたのである。私と渓声君には、「人数分釣る」という自信がある。それを見ておいてもらいたい気持ちも含まれている。


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