・日之影大人神楽の「座張」
九州脊梁山地の神楽は、「荒神祭祀」が骨格をなしている、と把握できる。
これまでに出ている情報・研究書などを総合すると、「宮崎の神楽は〝岩戸開き〟に象徴される国家創生の物語である」「記紀神話を演劇化したものである」となるのだが、現地に通い、詳細に取材を重ねるうち、その定義に違和感をもち、さらに「九州脊梁山地の神楽は先住神・土地神を祀る祭祀儀礼ではないか」という見方に立って見直すと、やはりそこには従来のテキストには書かれていなかった「土地神の物語・荒神の祭祀」が神楽全体の骨格を貫いていることがわかってきたのである。
私はこの視点を獲得するまでに30年近い年月を要したことになる。神楽とは、それほどに奥行きの深い祭祀儀礼である。神事・神話・歴史・音楽・美術・演劇等のすべてを包括した総合芸術と捉えてもよい。
荒神祭祀についてはこれまで種々述べてきているが、ひとことでいえば、「荒神とは、地主神であり、大いなる自然神である。宇宙根本神としての性格も合わせ持つ」となる。「荒神祭祀」が、これまでに見て来た「山人」の儀礼と重複し合っていることもわかる。
・高千穂押方五ケ村神楽の「道化荒神」
高千穂神楽では、先導神・猿田彦の舞で神楽の幕が開き、清澄な招神の舞が舞われた後、主祭神の降臨がある。その後、種々の演目が展開されるのだが、合間に「道化荒神」が出る。「座張(ざはり)」と表す地区もある(道化荒神としては出ない地区もある)。荒々しく登場し、御神屋を暴れ回り、若い女性に抱きついたり、子供を抱き上げたりして御神屋を撹乱し、神楽の場を騒乱と爆笑の渦に巻き込んで、あざやかに退場する。
神楽における「道化神」には諸相がある。高千穂神楽の「八鉢(やつばち・後述)」、米良神楽の「ばんぜき」「部屋の神」、宮崎平野部の神楽の「田の神」、各地に分布する「ひょっとこ」などである。いずれも、祭りの場に闖入し、祝祷の舞を舞い、言祝ぎの言葉を述べるのだが、その心意に、「反骨」が潜んでいる。彼らは、渡来神に服属した土地神の使い(眷属)であり、心(しん)から屈服してはおらぬ「まつろわぬ民」の末裔なのである。ゆえに、彼らは、征服者であり支配者たる祭りの主役にちょっかいを出し、風刺し、ときには、時の政権に対しても痛烈な批判の矢を浴びせる。これが、絶大な民の指示を集め、拍手喝采を贈られる「道化神」の真骨頂である。
「山人」が零落した神の象徴出ないこともお分かりであろう。
祭りの場は、「山人」が変異した道化神の登場によって、一気にトランス空間へと変異する。
・宮崎市村角高屋神楽の「田の神」