猿田彦は謎の神である。
1996年から12年間にわたり伊勢市の猿田彦神社で開催された「猿田彦大神フォーラム」には、全国から一流の学者・現場の研究者などが集まって資料を持ち寄り、議論し、時には現地へ足を運んで調査を続けたが、結論を見出すどころか「謎」は深まるばかりであった。
『猿田彦大神をめぐる謎の数々―国津神なのになぜ天孫降臨の一行の道案内をしたのか?天狗のような鼻・赤い目は何を意味するのか?アメノウズメノミコトとの関係は?伊勢・出雲・日向・沖縄とのかかわりは?なぜ庚申信仰や道祖神と習合したのか?祭りや神楽に猿田彦が登場するのはいつ頃から?猿田彦面の由来・系譜は?・・・・・』
以上『』内の文は本書「謎のサルタヒコ」の帯に書かれたメッセージ。
『サルタヒコ伝承の発信している世界はたいへん多義的であり、象徴的であり、政治的でもあり、宇宙論的でもあるといった、謎と複雑性に満ちた物語世界として浮上してくる。そのサルタヒコが二十一世紀にどのようなメッセージをたずさえてよみがえるのか/鎌田東二』(「サルタヒコの旅」―創元社・2001年)
これは「サルタヒコの謎」の姉妹編「サルタヒコの旅」の裏表紙に載せられた、二書の編著者であり、猿田彦大神の総合ディレクターとして議論と研究を牽引した鎌田東二氏の総括的メッセージである。
書物の紹介としてはこれ以上のものは不要だとも思われるが、私もこのフォーラムには初回から参加し、最終回は「由布院空想の森美術館」の閉館という人生における転換点とも重なったので、特別な感慨がある。そして、その後も猿田彦の謎を追う旅は続いているので、少し補足をしておこうと思う。
私は、このフォーラムに参加した当初から、現在に至るまで、一貫して「猿田彦は南九州の先住の神、すなわち南の王である」と言い続け、書き続けてきた。その確信は今も変わらない。なんとなれば、記紀神話天孫降臨の段で、天下った天孫・ニニギノミコト一行を猿田彦が迎えたのは、他のどこでもない、「筑紫の日向のクニ」であり「天と地の境・天の八衢」であり、案内した先は「高千穂」すなわち南九州に限定されるのであるから。そして、この二書には、その論拠に基づき、九州に分布する猿田彦事例を報告し、旅の紀行文的レポートを提出した。だが、その反響はほぼなかったといえる。それは、猿田彦が出雲で生まれたという伝承を持ち、日向の高千穂へ天孫の一行を案内し、さらにはアメノウズメノミコトと結ばれて伊勢へと向かうという空前ともいえるスケールの行動歴を示すからである。そして伊勢には伊勢神宮を守護する位置に猿田彦神社があり、その直系の子孫であるという宇治土公貞明宮司がおられた。さらに、猿田彦の信仰は全国にあまねく分布し、強烈な光を放ち続けている。データが提出され、議論が深められるにつれ、混迷と謎がますます深まったのである。
この二書では猿田彦をめぐってさまざまな「謎」を解く鍵が提示された。そしてそれらのデータは、空論でも空想でもなく、「実相」に近いものである。これによっても猿田彦の多様性がわかるが、全編を通して共通し、ぶれない猿田彦像がある。それは、「国津神」であり「先住神」であり、雄偉な相貌を持つが女性の魅力によって融和する協調性を持った神であり、村や神域を守護し、先導神・縁結びの神ともなる平和の神、縄文的・精霊神こそ、猿田彦である、というイメージ。これが猿田彦信仰を貫く骨格と把握して間違いない。この二書を持ち、猿田彦を追う旅を続ければ、また新たな出会いと発見があり、さらなる猿田彦像が上描きされるであろう。猿田彦とはそのような多様で多彩で不思議で、おおらかな神である。