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森の空想ブログ

「ゲリラの釣り方」 真夏のヤマメ釣り(2) [リョウとがんじいの渓流釣り日誌(26)]

「ゲリラの釣り方」 
真夏のヤマメ釣り(2)



夏のヤマメが釣れにくい理由の第二に、冷水域を棲息領域とするヤマメが、水温の高くなった下流・中流から上流へ、大川から支流へ、さらに細流へと遡る習性があげられる。初歩的な知識のひとつだが、小学五年生ぐらいの男の子の渓流釣り指導をする時には、教えておいたほうが良い。大きな川に流れ込む支流に出合ったら、まず、流れに手を浸して二つの川の水温を測る。そして、明らかな違いを認めた上で、小さな谷へと向かうのである。

「夏のヤマメは釣れぬ」
という人々に対して、私は、
「釣れるよ」
と言う。
「ヤマメだって毎日餌を食って生活しておるのじゃ」
というのがその論拠である。
冷水域や草藪の陰、木立の下などに移動し、身を潜めるようにして餌を狙っている彼らは、流れてきた餌や水辺を飛翔する昆虫などに対して猛然とアタックする。激流が飛沫をあげる早瀬の中で餌を追ってくる奴もいる。
そこに焦点を合わせるのが夏のヤマメ釣りである。蜂の巣や蝮に出会う確率が高いし、狭い谷に張り巡らされた蜘蛛の巣との戦いも面倒だが、その辺の課題さえクリアすれば、ヤマメは夏でもちゃんと釣れるのである。
頭には白いタオルを巻く。蜂の攻撃の第一波は頭部が目標となる。ゆえにまずはそこを防御しておく。蝮は怖いがゴムの胴長は暑苦しいから、厚手のジーンズに川足袋で足元を固める。大きな蛇を踏みそうになったことは何度もあるが、これまでに釣行で蝮と出会ったことはないからこれからも出会わないことにしておく。いちいち蛇を怖がっていたら、川辺には立てない。上着は長袖の白っぽいシャツまたは作業着。藪こぎをするから、半袖のTシャツなどでは擦り傷が絶えない。リュックサックの中に予備の竿を一本。飲み水と非常食を忘れぬこと。要するに昔の杣人のような出で立ちで、細い谷へ分け入るのだが、この私の釣り支度と釣法を、随筆家・主夫の柴田秀吉氏は、
「ゲリラの釣り方」
と形容した。柴田翁もまた釣りを愛し、酒と料理を愛した文人であり遊び人であった。遊びの極地として、大学教授の奥様の食事を作り、家事を受け持つ「主夫」という独自の境地に到達した。「主夫日記」は当時(1970年代後期)評判をとった著作であった。左翼の闘士でもあった柴田氏は「ゲバラの日記」や「金芝河詩集」などを座辺に置く読書家でもあったから、藪を分けて夏ヤマメを追う私の姿を見て、ゲリラを連想したのだろう。
だが、私はゲリラに興味はなく、自分の釣りは「山人(やまびと)の釣り」である、という程度の認識であった。生まれ育った山の村の大人たちの服装・釣技をそのまま踏襲しただけのことであるが、山人という表現には、そのころ勉強を始めた民俗学の影響が多少付加されている。

夏の一日、釣友・渓声氏が来た。渓声氏とは、郷里(大分県日田市)でギャラリー渓声館を運営する梅原勝己君のことである。私の数少ない釣友に同じく郷里の草炎氏(書家の千原草炎君)がいるが、この二人は、私より釣技も釣りに対する熱意も一段すぐれている。二人との交友と釣り談義の数々は、語り始めると尽きるところがないほどであるから今回はやめておこう。
渓声君を案内したのは、五ヶ瀬川の支流の細い谷である。谷の名は伏せておく。今年出会った良い谷だが、流域も短かく細い流れの川であるから、公表すればたちまち釣り人が殺到し、無惨な状況になることは明らかである。自分一人で通って、ぽつりぽつりと釣っている分には、谷が荒れたり、絶滅の危機を招いたりという事態を招くことはない。
渓声君と草炎君は一年に二度しか宮崎の谷へは来ないから、案内してもよいと判断する。が、二泊三日で100匹以上を釣り上げて帰ることもあるから、影響がまったくないとも言い切れない。二人が竿を入れた谷は、半年または一シーズンは休ませて(釣りに行かないこと)あげなければ回復しないのである。
草炎君と渓声君の釣法には少し違いがある。日田市を貫流して流れる大河・三隈川(筑後川の上流)のほとりで育った草炎君は広々とした大きい川で悠々と竿を振る。その三隈川の支流の花月川のそのまた支流の小野川(陶郷小鹿田の里を源流とする)の瀬音を聞いて育った渓声君は、渓谷に分け入る釣り方である。
さて、今回、草炎君は所用があって参加できず、渓声君一人で来た。ちょっと寂しい気がするが、釣り上げられるヤマメの数は半分で済む。渓声君と私は隣村の育ちであるから、釣法も近似するところがある。したがって、谷を見下ろしただけで、渓声君は
「僕はあの辺りを釣りましょう」
と即決し、私は
「うむ、あそこは青葉ヤマメの良い型が出たポイントじゃ。僕はその上流を釣ってみよう」
と、まだ踏み込んだことのない細い沢を選ぶ手順に迷いがない。

ここから先は、「釣れた」話で、大いなる自慢話となるので割愛。二人ともゲリラのように藪を分け、沢を遡り、蜘蛛の巣を払い、葦の茂みの脇や大きく流れに差し出した木の枝の下、倒木の陰などを狙って、ほぼ満足できる釣果を得たのである。


柴田秀吉画/ヤマメ図・1981年9月29日 筆者が筑後川上流の野矢川で釣ったもの。33センチ、生涯最高の大物。このころは町の釣具屋で売っている800円程度の四本継ぎの竹竿で釣っていた。

*インターネット検索したら、下記の記事が出ていた。柴田氏を良く知り、端的に語る文であるので、転載する。挿画は、数年前の夏、雨漏りに濡れた多くの荷の中から出てきたもの。今思えば、その頃こそ、氏が81歳で他界された2010年8月9日頃のことであったような気がしてならない。柴田先生、さようなら。

     ☆

[柴田秀吉という人生]
山下国誥

九州で個人誌を出し続けた故前田俊彦(豊津)、故松下竜一(中津)、そしてここで取り上げる故柴田秀吉(別府)の3氏には、共通点がある。
戦後の日本社会と日本人に対して、救い難い苛立ちを抱き続けたことである。(中略)
氏は、文化人の名で詩人、画家などと呼ばれることをひどく嫌った。身も心もどっぷり自然の中で呼吸した、野人であった。四季を通じて、山芋を掘り、ヤマメを釣り、薬草を干した。
氏の絵の中の生物は、息を呑む生の活気で迫る。筆者には、やはり抜群の技量で生物に命を吹き込んだ、香月泰男さんの絵と重なって見える。
氏は1944年、14歳で満州に渡り、満鉄系の通信士の養成学校に入る。まもなく敗戦。豹変する醜い大人の日本人。潔癖な少年は孤立する。大混乱の中、日本人集団から、独り放り出される。それが、生涯、立ち直れない心の深傷となった。
帰国した日本は、激変していた。少年の深傷は定職に就くことをためらわせた。少年は戦後65年間、ずっと、自治体の失業対策労働者として行き抜く道を選ぶ。(中略)
柴田さんは同人誌「軌道」を経て、個人誌「すわらじ」、「自鋤庵記」を出す。8月15日は65年後も埋火となって、多くの日本人の身を焦がし続けている。

(西日本新聞8月6日掲載より)

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