一ツ瀬川は、流域に40以上の支流を持つ大河である。東は椎葉の山脈を源流とし、西は宮崎・熊本県境の市房山系を源流とする川が、西米良村・村所で合流し、米良山系の山々を削りながら流れ下って、日向灘・太平洋に注ぐ。深い山脈には神楽を伝える村が点在し、天孫降臨伝承、平家の落人伝説、南朝と肥後菊池氏の入山伝承などが伝わる。渓谷は、支流ごとに異なる渓相を持ち、ヤマメが棲息する。
真夏の一日、その一ツ瀬川の一本の支流に入った。このヤマメ釣りシリーズでは、私は現地の地名や渓谷の名を公開しないことを原則としているが、上掲の写真と以下の記述により、詳しい人は、ああ、あの谷だな、とすぐに見当をつけると思われるのだが、今回はあえてそれを了として記述を進める。渓谷の再生の「記録」としての一面をもつと考えるからである。
ただし、この渓谷へたどり着くまでには、ご覧のような「路肩注意」の看板や、崩落寸前の山道、崖崩れの跡などを随所に見なければならない。眼下に、飛沫を上げて流れ下る激流があり、藍青の水をたたえる淵も見える。簡単には踏み込めない領域だということを告知した上で、筆を進めることにしよう。かくいう私も、現在乗り回している普通乗用車で再びこの谷を訪ねることはないだろうと、今は思っているのである。
10年前――
宮崎県で発生し、猛威をふるった口蹄疫(牛・馬・羊・猪など二つに割れた蹄を持つ動物・偶蹄類の伝染病。30万頭に及ぶ家畜が殺処分された)の影響で、この渓谷の最上流部にある牧場跡が種雄牛の避難場となり、牧場に通じるすべての道は封鎖され、雪と見紛うほどの石灰が撒かれた。その影響で、この渓谷は死の谷と化したのである。石灰や消毒薬は谷に流れ込み、微生物が消え、水棲昆虫が死に絶え、ヤマメをはじめとする川魚がほぼ絶滅状態となったのである。
私は、口蹄疫終息3年後にこの谷で釣り、一匹のヤマメにも出会うことが出来ず、そのことを確認したのである。5年後に2匹釣れた。7年後に一日かかってやっと5匹の釣果を得た。全滅ではなく、どこかの枝川で細々と生き延びていた個体が繁殖し、徐々にその数を回復しつつあったのである。そして、今年が10年目。谷沿いの道は、いつ通行不能になるかと恐れるほど荒れていたが、渓谷は10年をかけてその美しい姿を蘇らせていた。
沢辺に立ち、静かに呼吸を整える。真夏のヤマメは釣れにくいと言われるが、そんなことはない、彼らだって毎日餌を喰っているのだ、と私は言い、峪へ入るのである。谷風に吹かれ、清冽な水に手を浸し、照り付ける太陽の陽射しを浴びる。かつて、渓流釣りの名人として知られた佐藤垢石老は、弟子入りしてきた文人釣り師の井伏鱒二氏に、渓流釣りとは、山川草木と一体になることだよ、と訓示した。下界は新型コロナウィルス感染症の蔓延におびえ、東京オリンピックの開催中で狂騒状態である。だが、余分の事は考えずとも良いのだ。今、この谷で竿を振る、そのことだけで清々しい気分になれる。ありがたいことだ。
第一投で、まず6寸物がかかった。勢いよく瀬を引きまわし、銀鱗を光らせて上がってくるイキの良い夏ヤマメだ。2匹目は、7寸物の上物。一発では抜き上げることが出来ず、瀬を流れ下って深みへ踊り込む寸前に、小石のある浅瀬へ引き上げた。ここは、20年前、由布院からこの地へ転地してきて、良く通った峪だ。下流で釣友の椎木君が尺1寸(33センチ)、私が尺物(29、5センチ)を上げた日もある。馴染みのポイントで、次々に良型を得、午後の2時間ほどで6匹の釣果。真夏の釣りとしては上々の成果である。竿を収め、素裸になり、流れに入って、躰を水流に浸し、汗と心身の疲れと日々の憂憤とを洗い流す。ヒグラシの声が、谷から森の奥から山峡へと響いてゆき、また反響して帰ってきた。
危険な渓谷沿いの道を引き返すのはやめて、山越えの峠道を帰った。この道沿いには中世の集落の名残をとどめ、落人伝承と古式の神楽を伝える村がある。曲がりくねった山道だが、山に棲む人たちによって丹念に整備されており、遭難の心配はない。峠には、広大な米良の山脈を見晴るかす地点がある。その道を下りながら、
――ああ、生きていてよかったなあ、
と、呟く。私はこれまでに、ここが死に場所かもしれない、今が死ぬ時かもしれないと直感する場面は幾度かあったし、活動をともにした仲間や親しい友人、身内などの異界への旅立ちを見送った。が、死にたいとか、ここでいま死のう、などと思ったことは一度もない。そうして、こんな平凡なひとときに出会った瞬間、しみじみと、ここまで生き延びきてよかったなあ、と思うのである。私はさきほど、6匹のヤマメを釣り上げ、瞬時に〆めて殺し、自身は蘇生の思いを抱きながら谷から上がって来たばかりである。生も死も、不可思議の領域で変異と変転を繰り返しながら、そこに実在する。