森の空想ブログ

高千穂・鬼八伝承と山姥のこと――荒木博之氏の遺稿より――[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-7>]

*昨日の記事の続き。
 
          
 
 このシリーズの母体となっている「自然と文化第60号―九州脊梁山地/山人の秘儀―1999」に、荒木博之氏(1922-1999)の「鬼八伝承を巡って―土蜘蛛と山姥―」が掲載されている。今から20年以上前の原稿だが、色あせるどころか、いま最も注目されている「ネイティブの神」=「日本列島古層の神」としての鬼八・土蜘蛛・山姥の把握である。以下に要約して採録することにしよう。写真1枚目「高千穂神楽神/神おろしと山森」、2枚目「阿蘇の火焚き神事」、3枚目「山姥」も荒木氏撮影。
 序文では、高千穂の鬼八伝説を取材するために同地を訪れた荒木氏を迎えたのが、自ら鬼八の末裔を名乗る興梠(こおろぎ)氏とその仲間たちであったことが、衝撃的に語られている。伝説では、鬼八は神武天皇の皇弟・御毛沼命(ミケヌノミコト)に反抗する逆賊とされるが、地元・高千穂では、逆賊どころか土地の人々からあふれる行為を持って遇されているのだという。
――女房を寝取られたり、矢取りとしてこき使われたり、間抜けで哀れで・・・そこがまたなんとも言えない魅力なのです。
 と語る興梠氏こそ、鬼八の子孫すなわち土蜘蛛であり、この土地の先住民であり、御毛沼命=十社大明神を祭祀する奉仕者以前の神職なのであった。
【異族討伐説話】
 『むかし、鬼八は山野を自由に馳け巡って狩りをする異族の首魁だった。足が速く、「走健(ハシリタケル)」とも呼ばれた。鬼八には阿佐羅姫という妻がいた。またの名を「鵜の目姫」といった。鈴を張ったように目の大きな飛び切りの美人だった。その阿佐羅姫に御毛沼命が横恋慕した。命は手勢を率いて鬼八を攻め、その躰をズタズタに切り離した。しかし鬼八の躰は切られてもすぐ元通りになるので、首・胴・手足をバラバラにして埋めた。それでも鬼八の霊は時々目を醒まして唸り、早霜を降らすので「猪掛け祭り」を行って鬼八の霊を慰めるようになった。』
 この鬼八の話は阿蘇地方にも伝わっている。
『阿蘇の鬼八は健磐龍命(タケイワタツノミコト)の矢取りの仕事をする従者だった。阿蘇神社の祭神でもある健磐龍は神武の皇孫とされている。
 ある日、健磐龍が往生岳から的石と呼ばれる大岩に向かって百本の矢を射た。そのたびに矢を取りに行く役の鬼八はくたびれ果てて、百本目の矢は足の指に挟んで返した。激怒した命は鬼八の首をはねたが、首はすぐに元通りになった。そこで命は鬼八の躰をバラバラにして別々に埋めた。それでも首だけは天に舞い上がった。その怨みで早霜が降るようになった。そこで霜宮を建てて鬼八の霊を祀り、毎年8月19日から60日間、火焚き殿に御神体を移し、火焚き乙女が温め続けるようになった。』
 この高千穂と阿蘇に多少違った形で伝承されている鬼八伝説は、大和朝廷、あるいはプレ大和朝廷による異族征服の歴史を象徴的に語っている説話であり、吉備の温羅(ウラ)伝承などに類型がある。同一の文脈の上にある説話と解釈できよう。
【コオロギとツチグモ】
 「コオロギ=興梠」という特殊な姓の謎は、興梠氏が鬼八の子孫で高千穂の先住民であり、「カムロギ」という祭祀者の末裔であるという分析により、解ける。何度も生き返って祟りを成す鬼八とは、山岳に籠って反乱を繰り返す先住民「まつろわぬ民」を象徴するイメージであろう。鬼八は、伝説の中でも、実在の子孫としても存在し続けたのである。
伝承は、 
『御毛沼命の高千穂入りに際し、土地の豪族・興梠氏は直ちに恭順の意を示して命を道の途中まで出迎えたという(ここに天の八街に立つ猿田彦のイメージが重複する)。興梠氏はそれまでの居住地を命に譲り渡し、現在の「荒立神社」の辺りに移った(荒立神社の主祭神は猿田彦である)。――中略――』
と語り継ぎ、古記録には
 『古老のいへらく、昔、風巣(クズ)山の佐伯、野の佐伯ありき(常陸国風土記)、高尾張村邑に土蜘蛛あり、其の為人、身短くして手足長し(日本書紀巻第三)、に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷。天津彦々火瓊瓊杵尊天の磐座を離れ・・・日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に天暗冥く、夜昼別かず・・・ここに土蜘蛛、名は大鉏、小鉏と曰ふものありて・・・(日向国の風土記)』
と表現されるように、異族とは、蜘蛛のように手足が長く穴居する異端・異形の者たちとされた。が、それはあくまでも「正統」からの見方であって、見方を変えれば、山野を自在に駆け、野に伏せ、果敢に戦う「走健」の姿である。そしてそれこそがコオロギであり、鬼八なのである。
高千穂神楽は、岩戸神楽ともいわれ、大和王権樹立の物語を縦軸に構成される「国造り」の物語とされている。岩戸神話に五行思想、妙見信仰、荒神信仰、山の神信仰、狩猟儀礼などを包摂しながら、正統化の道を歩んできたのである。それでもなお、封じ込まれずにしぶとく残り続けたのが、古層の祭りとしての山の神神楽「山森」であり、不服従の民の残影「道化荒神」であり、「鬼八」の荒ぶる魂なのである。
 
       
 
【山姥の原初的伝承】
 高千穂の代表的遺跡に陣内遺跡がある。高千穂鉄道の高千穂駅の北北東に位置する。ここから出土した資料の大半は縄文時代後期から晩期にかけての土器で、特に第四層からは多量の土器や石棒が出土した。
ことに縄文晩期後半の土器とともに出土した土偶は、腰の近くまで隆起しながら垂れる巨大な乳房を持ち、下腹部も大きく膨らんで妊娠した女性を表している。この遺跡の同じ地層からは男根を表す石棒も出土していて、土偶も石棒も縄文人の豊穣への願いとされている。
九州脊梁山地には、乳房が大地に垂れ下がるほど長く大きい山姥の話が分布する。五家荘には山姥のお産を助けた老女が山姥から金子を貰う話、椎葉の日添にはバッチョ笠を風に飛ばされた男が傘を追ってゆくと乳房のたわっているヤマオナゴに逢った話、五木村では焚き火をしていた山師たちのところへ山女がやって来て胸をひろげてあぶった。一人が火の中の焼けた石を乳房の間に投げこむと、女は山が崩れるような音を立てて逃げて行ったなど、など。*山姥のお産を助けた西米良の「西山小猟師」の話は別項。これらは、焼畑の記憶をとどめる大地母神的な女神であると推理されている。山姥伝承は、古代タタラ製鉄の伝承とも重複しながら、各地に伝わっている。阿蘇の火焚き乙女に付き添う祖母も鍛冶屋の母であるとする解釈もある。「山姥=山の神」とは、大和王権樹立以前の「古層の神」であった。
 
       
 
 *この項は荒木氏の遺稿をもとに筆者・高見が要約、記述の「生贄に供される少女・山に入る女・山女・山姥などについて」「米良山系の神楽の「磐長姫伝承」と「盤石〈ばんぜき〉」へと連続して「まとめ」に入る予定。

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