昨年ヤマメ釣りを始めたばかりの陽山君が、ヤマメが釣れましたー、というフェィスブック記事を投稿していたので、見たらあきれた。それはヤマメではなく、アブラメ(アブラハヤ)だったのだ。それで、私は
「ちょっと待った、そいつはヤマメではありませんぞ、アブラメです。外道の中でも最下位に位置づけられるヤツです」
とコメントしておいた。小学5年生でも釣れる馬鹿な魚アブラメと練達の釣師でも時に釣果ゼロの日があるほどの崇高なる難敵ヤマメとの区別もつかない初心者の笑話一席。
これがアブラメ。陽山君のフェィスブックから。
ところで、たった今、私はアブラメのことを馬鹿な魚と言ってしまったが、アブラメ君の名誉にかけて弁明しておくと、体長10センチ前後(最大で15センチ程度)のアブラメという魚は、どんな山奥の小さな沢にでも棲息する生命力の強い魚である。サンショウウオと同居していることさえあるのだ。私はその生態をイワナと同じく源流域の珍魚と認識しているほどなのだ。ただし、食い意地が張っていて、どんな餌にでも食いつく。少年期に飯粒で釣った記憶のある山育ちの人は多かろう。ゆえに良く釣れる。身がやわらかく、骨が硬いので、好んで食べる人は少ないが、大量に釣れた時は熾火で丹念に炙り、甘露煮にすると旨い。山郷の珍味といえる食材なのである。しかしながら、ヤマメ釣りに行き、アブラメばかりが釣れると、落胆の度合いは甚だしい。川虫の採れにくい沢で、残り少なくなった餌箱の餌をアブラメにかすめ取られた時の無念は、思わずそいつを石の上に投げ捨てるほどである。こんな時、アブラメは憎むべき「外道」となるのである。
釣りにおける「外道(げどう)」とは、目的の獲物以外の釣果をいう。ヤマメ釣りのアブラメがその筆頭だが、おなじくカワムツ(私どもはヤマソバエまたはバカバエと呼ぶ)やウグイ(九州ではイダと呼ぶ)などがそれである。ハヤ釣りをしていて金魚を釣り上げたことがあるが、それも珍しい経験には違いないがあくまで外道である。だが、鮒釣りに行って鯉が釣れた時にその鯉を外道扱いするかどうかは難問である。岸壁でアジやカジカなどの小魚を狙っていて鯛やカンパチが釣れたらどういう扱いになるか。「外道」の解釈は微妙かつ繊細なテーマである。
さて、外道でも釣れれば面白いし、望外の獲物が釣れることがあってそれはそれでよろしいのであるが、外道釣りに熱中するとヤマメ釣りの腕は上がらぬ。春先のヤマメ釣りもしかり。ここが大事なところである。以下にその原理を述べる。
渓流釣りの「アタリ(魚信)」とは、魚が鉤を咥えた瞬間、手元にくくっと伝わる微細な手ごたえをいう。浮子(ウキ)や目じるしが、ふっと沈んだり、水中に引き込まれたりする場面もそれである。この瞬間を逃さず竿を上げれば、必然、魚が鉤に掛かっていて、釣れる。これを「合わせ」という。春先のヤマメもほぼそれに近い。ヤマメは、餌を咥えて“アブナイ!!”と察知すると、ただちに餌を放して逃げ去る。その間、10分の2秒だとという。この数値は暇な釣り人が水槽の中で実験した結果であって、春先のヤマメのアタリとほぼ同一である。ところが、5月の連休を過ぎたころから夏場へかけてのヤマメは、運動活発・俊敏であり、鉤を咥えて放す速度は10分の1秒レベルに上がる。稲妻のごとき速さである。剣豪の一閃といってもいい。「青葉ヤマメ」「夏ヤマメ」と呼ばれるこの季節の美しく、逞しく、美味なるヤマメを釣るということは、この速さに負けない「合わせ」の技術が要求される。「早合わせ」といって、ヤマメの食いつく瞬間を読み、そのタイミングに合わせてすでに竿が上がり始め、竿先に付いた糸とさらにその先に付いている鉤がほぼ同時に始動しているという妙技。これがヤマメ釣りの醍醐味なのである。達人の技なのである。
渓流釣りをこよなく愛した昭和の文豪・井伏鱒二氏が書いているが、ある時、釣り好きの文人仲間で渓流釣りに行ったが、誰の竿にも獲物がなくて腐っていたところ、その同じ沢を地元の釣り師が釣り上って来て、皆が見ている間に20匹も釣り上げて飄々と川上へと去って行った。その夜、釣り宿で件の名手と一緒になった一同が、恐る恐るその極意を教授してもらいに行くと、その釣り師は心底あきれたような顔をして
――魚のことは魚が教えてくれるよ。
と言ったまま、あとは黙って酒を呑み続けたというのである。一同恐れ入るほかない次第だが、ここに「合わせ」の真髄があろう。春先の釣りに慣れた文人の技は、季節ごとに釣り分ける土地の釣り師の呼吸をのみ込めなかったということだ。
昨日書いた、解禁直後のヤマメを釣らぬほうがよろしいという論の根拠はここにもある。春先のヤマメはよく釣れるが、それに慣れると、ヤマメ釣りは上達しない。したがってヤマメ釣りの深奥部に到達することができない。これは、陽山君への訓示。たった一度だけ(受講料を頂いて)、一緒に釣行した仲だが、師匠と呼んでくれることに対する返礼である。これ以上のことは、実地に体験し、魚に教えてもらうしか伝授の法はない。