作者の小澤俊夫さんは 指揮者の小澤征司さんのお兄さんだそうです。約50年間大学で教鞭をとられ、今は小澤昔話研究所を立ち上げて活躍されています。
私にとって、昔話はストーリーだけを追って、終わりよければ良かった良かったといって眠りに就いた。その話しの暗に云わんとするところなど全く考える事も無かったです。ですが この本を読む事によって、なるほどとうなづけるものが隠されているのに気付かされました。
本文はじめより
昔話の伝承を具体的に思い浮かべてください。今八十歳の語り手が居るとすると、その人は、七十年前には、確実に十歳の聞き手だったのです。そのとき、感銘を受けて聞いたから、七十年たった今、年寄りとして語って聞かせるのです。七十年間には、いろいろな人生経験をしたでしょう。自分の子どもを育てたでしょうし、肉親や近所の、あるいは教え子としての子ども達をみてきたでしょう。しかも、その子の一時期を見るだけでなく、十年後、二十年後のその子の成人した姿も見たでしょう。洟垂れ小僧で、悪い事ばかりしていた子どもが、二十年後には立派な若者になり、三十年後には真面目な父親になったのも見たこともあるでしょう。だから、人生を一つの流れとしてみる事ができるのです。昔話には、そういう人生観、若者感がしみこんでいます。それは、いわゆる社会的道徳よりももっと根本的な、人が育つとはどういうことか、人は人生をどのように歩いてゆくかを表わすようになるのです。
ろばの子 (グリム童話) 若者を受け入れる社会
昔むかしあるところに一人の王様とおきさきがいました。二人には子どもが居らず、いつも神様に子どもが授かるように祈っていました。 そしてようやく願いが叶えられ、子どもが生まれたもですが、生まれてきた子は人の子どもではなくろばの子どもでした。王様は神様が下さったのだからといってそのろばの子を大切に大切に育てました。その子はすくすくと育ち、その間にリュートを学びとても上手に弾けるようになっていました。 しかしあるとき自分の顔を鏡で見てとても悲しくなり、一人で旅に出ることにしました。そこで ある御城に行ったとき、門でリュートを弾いていると珍しいろばが居るというので、そこの王様の前でリュートを弾く事ができました。王様は褒美に何が欲しいかと聞いたので、ろばの子はそばにいた王女様が欲しいといいました。その夜二人が寝室に入るとろばの子はろばの皮を脱いで素敵な王子様になりました。翌日王様は王女さまに悪かったなと聞かれたところ、王女様は昨晩の事を話しました。その夜、また二人が寝室に入ってから王様も密かに忍び込んで王女様の言葉を確かめました。そしてろばの皮を焼いて捨ててしまいました。翌日ろばの皮がなくなったのに気付いた王子様はあわてて立ち去ろうとしました。そこで王様は『おい、我息子よ。そんなに急いでどこへ行くのだ。ここにいなさい。お前は、私のところから去ってはいけない。そして、私が死んだらこの国を治めるのだと。』
ろばの皮は、実は王子の外見に過ぎなかったのです。一見ひどい姿をしているが、内面は美しい と言い換えたら、これはもう世間の若者の姿一般ではないでしょうか。子どもや若者は、ふだん、いろいろなことをして、親や先生に心配をかけたり、社会的に非難されたりします。いわば汚い姿で暮らしています。しかし、そういう子でも、本当は内面に美しさをいろいろ持っているのです。ふだん醜い若者が、たまに、思い切って本当の美しい姿を現したとき、誰かがそれを無条件に認め、その美しい若者に愛情を注ぐ事が大切なのでしょう。
次に何度も失敗したり、悪さをすることがある。 これは 親を裏切ろうとしてやっているのではないのですよ。振り子が振れているのだから、本人でも止められないのです。もうすこし待ってあげてください。よい自分と悪い自分とのあいだを揺れ動いているのです。それが若者の自然な成長の道筋だと思います。私はこういった若者の成長の道筋を 灰かぶり振り子 と呼んでます。 灰かぶりとは表面上は灰をかぶって 醜くしている様を云うのでしょう。
最後に 人の価値を測るものさしがひとつしかない社会は、息苦しい社会です。 その通りだと私も思います。子どもにはおおらかな目で見つめてあげようと思います。
良い言葉ですね。
色々なモノサシがある
色々な価値観がある
と思っていても
いつの間にか自分のモノサシで測っていたり。。
「灰かぶり振り子」というキーワードで
思い出すようにしたいと思います。