Love our lives

人生の一コマ一こまを 愛し慈しんで 残したい。
ステキな庭のバラを! 旅行のスナップも そして大切な家族の素顔も!

生きて死ぬ私    茂木 健一郎

2009年03月29日 19時58分31秒 | Books

 生きて死ぬ私     茂木 健一郎

 このエッセイは茂木さんの30台に書かれたものである。前出の 今ここからすべての場所へ は40台のものである。

 この生きて死ぬ私 を読むと、茂木さんの思考の原点がわかるような気がする。

 『人間の喜びも、悲しみも、すべての感情は、脳の中にある。人生のすべては、脳の中にある。』    『物質である脳に、どうして心という精神現象が宿るのか?  を忘れてはならない。 これは、人間とは何か?  という普遍的な問いに、脳科学者としての立場から切り込んでゆくことをいみする。』

 大半といってもよいくらいのページを掛けて、臨死体験、とか体外離脱体験、といった オルタードステイツと呼ぶらしい現象について述べられている。 この辺りは あまり興味も向かず、また読み進めるのも困難であった。           

 


今、ここからすべての場所へ   茂木 健一郎

2009年03月29日 14時48分48秒 | Books

 今、ここからすべての場所へ   茂木 健一郎

 このところあちこちのテレビ番組でお目にかかる茂木健一郎さん。この方を初めて見たのは、3年前になるか須坂のメセナホールで 岩波講座の講師として上田紀行さんと一緒に講演された時でした。その後茂木さんのブログに出合い、彼の毎日の充実振り、忙しさを知りました。 茂木さんの権威とか既成の概念に囚われなく対象を素直に真摯に見つめ考えてゆく姿が私は好きです。

 この本は、2冊目のエッセイだそうです。以前読んだ彼の本はやたらと馴染みのないカタカナ文字が出てきて閉口しましたが、今回は少なかったのか、慣れたのかそれ程抵抗はなかったです。読んでいて、茂木さんは,脳科学者という肩書きだが、むしろ哲学者的といったほうが良いのではと思ってしまう。

 『信じることと生きること』より  『信じるということは、客体に存する何かの事態に由来する事ではない。信じることの本質は主体の中に存する。』 対象が立派とか稀少だとかで信じるというのではなく、こちらが対象をどのように感じるかで信じる純粋さ、強さも決まるのである。 『変化する事が、生命の本質ならば、時の流れの中で別のものを信じるに至ることが、不誠実さとなってしまうはずがない。むしろ、いつかは変わってしまうことが(無意識のうちに)判っていたとしても、『今、ここ』において信じていることの中に没入する事こそが、高度な倫理的な振る舞いでもある。』 そこで『私は、全力で信じ、全身で愛し。そして思い切り裏切られたいと思う。希望に満ちて前に進み、思いこみが外れて失望し、後悔する。そのような精神の混迷の中にこそ、生きることの真実があるはずである。』

 『聖なるものについて』  茂木さんは宗教についてこう述べている。『どんなに立派な世界観でも、囚われてしまうことに対する警戒心が、共感する心とせめぎあう。』そう、私の思いと一致する。その良い例が、オウム真理教事件ではなかったか。他の宗教へ排他的になってしまうのだ。 『私たちは、自分の内なる聖なるものものを支え、その成長を促す為にこそ、この厄介な世の中における生を引き受けているのかもしれない。』『過去は、もう二度と戻ってはこない。しかし、本当は過去は育てる事ができる。何回もその現場に立ち返ることで、、新たな意味を見出す事ができる。単なる事実としての過去は、ほおっておいても、聖なるものへとは変わってくれない。聖なるものへの変化は、注ぎ込むエネルギーに比例する。』 『肝心なのは、思い出すという事である。過去に繰り返し立ち返るということである。過去を見る射程が長いほど、遠い未来を見晴らす事ができる。今、ここ にのみ生きる刹那主義は、聖なるものの喪失と、未来へのヴィジオンの貧困へと通じる。自分の中に既にある体験を数限りなく振り返ってこそ、聖なるものを育む事ができる。』 

 『喜びは不安に由来する』     『生きるということは、基本的にどうなるか判らないという不安定性の縁に自分を置く事である。安定と不安定との間の緊張感こそが、生命原理の本質である。 自分の人生で与えられたものの中でやりくりする楽しさ。不安の中に甘い希望をかみ分けるたのしさ。そのような人生の喜びに、格差も勝ち組も負け組みもあるはずがない。』

 やはり全篇に哲学的雰囲気が漂っていて、理解してゆくのに時間が掛かる。しかし、自分の過去を大事にしつつ 今の自分に自信を持ちつつを精一杯生きてゆけば人生まずまず自己満足できるのではと思えきた。この考えの根底は、般若心経ではないが五蘊皆空の思想と同じくこの宇宙の成り立ちからやがて訪れる爆発、消滅がくるという科学的事実に基づいているのであろう。


秒速5センチメートル   新海 誠

2009年03月28日 16時57分24秒 | Movies

アニメ映画 秒速5センチメートル  新海 誠

久し振りに NHK のアニメ映画を観た。 そのきっかけは、主題歌 One more time,one more chance が予告で何度も流されて、とても気に入っていたからです。   桜の花びらの散り落ちてゆくスピードが秒速5センチメートルということである。

 二人の小学校の転校生が、周囲のいじめなどから仲良くなった。春 桜の咲き誇る下で来年もまた二人で見られるといいねと約束し合った。ところが中学になり女の子は群馬の地方に転校となってしまう。離れ離れになった二人だが、或る時女の子から困ったと苦しみのあまりの電話を受け、男の子は一人で女の子の住む町へ電車で会いに行く事となった。しかし、生憎その日は吹雪で電車が大幅に送れ、男の子は女の子に家に帰ってもらいたいと思いながらもようやくたどり着いた駅にはやっぱり彼女は待っていてくれた。用意してあったお弁当を二人で食べながらその晩は過ごした。 続いて今度は男の子が鹿児島県種子島に転校となってしまった。 そこでは、主人公はそこの高校の女生徒で、この男の子に想いを寄せている。この子はサーフィンに凝っているのだが、今度こそ自分の気持ちを打ち明けると決心するのだが、男の子は優しいのだけれども心を開いてくれない、向けてくれない。周囲はきっとあの男の子は東京にいい子が居るのだとうわさしている。そんな二人の中、ロケットが大空高く深く打ち上げられてゆく。 女の子はそれでもいい、私はあの人を思ってゆくと決心する。 3幕目は再び東京で社会人となった男の子の世界で、仕事に追われて、ついつい昔の彼女と疎遠になっていってしまう。 自分でも心がすさんでゆくのが判り、会社を辞めてしまうのだが、もう彼女とのよりは戻せなくなっている。彼女の生きてゆく世界ができているのだ。

  アニメといえばアメリカのディズニーとか思い出して見るけれど、これほど繊細でまたハッピーエンドにならないのも日本アニメかなと思う。 全編を通して主人公の男の子、そして女の子の心情が語られている。そう倉本聡のドラマ『北の国』のジュンように。そしてバックには繊細なピアノソロが流れ、描画も実に細やかに美しく描かれている。打ち上げられたロケットのバックファイアーが時に雲に隠れるのだが、その雲にも薄いオレンジにこのファイアーが写っているなど。ここの場面は画面の二人も、観客の我々も思わず目が釘付けになっている。それほど圧巻である。 この映画を観ながら、自分のすぎさったこの時代を思い出す。残念ながら自分はこのような対象には巡りあわなかったけれど、そこまでは行かなかったけれど片思いの想い出の一つ二つはあったなー。自分の青春を思い出させる映画でした。

 この作者というか監督は 、新海 誠 さんは 長野県出身だそうですごい人が出ているのだなーと感激しました。   

 写真は 昨年12月の寒さで開ききらずに凍みてきたバラの蕾です。 全体に絞りが掛かったような、表現のし難い、いとおしさが感じられます。


秘花     瀬戸内寂聴

2009年03月12日 09時38分33秒 | Books

     秘 花    瀬戸内寂聴

 久し振りの小説。 小説はこのところ敬遠していたのですが 瀬戸内さんの作品という事で手に取りました。瀬戸内さんというのは 以前 源氏物語が 随分面白かったので良いかなと思ったからです。 2月に長野能を観賞しに行った際、入口で能に関する本が並べられていてその中で私のような初心者の入門には これが良いかなと思ったのです。

 秘花 この言葉は すぐに 世阿弥の父親 観阿弥の言葉ですね。能の大成者 観阿弥、世阿弥のことをもう少し知っておきたかったのですが。

 室町時代 当時14世紀ですが、様々な申楽、田楽、の一座というか流派がある中、観阿弥とその息子世阿弥が 能の真髄を極め大成したとされる。そのきっかけは 当時の最高権力者足利義満の寵愛を世阿弥が受けた事がそれだと。その寵愛とは 義満の若い男の子への男色であった。 やがて男色の相手が 世阿弥から他へ移り行くにつれて、観世座の人気にも次第に翳りが見え始めてくる。

 突然の観阿弥の死、によりその父の言葉を編纂したものが 有名な花伝書といわれる奥義書である。ところがこの書は世阿弥の息子ではなく世阿弥の弟の息子にあげてしまう。その時は世阿弥は 観世座は自分の息子が後継してゆくと思っていたのだが、しかし、世間の人気は自分の息子よりもさきの甥の音阿弥に移ってしまっていた。更に後継と思っていた長男は出先で病死し、次男は観世座の凋落を悲観し、その将来を見限り出家してしまう。そのうち政治の権力者が移り観世座を嫌う将軍義教により72歳という高齢にも拘らず佐渡へと島流しにされる。

 小説ではこの佐渡において世阿弥は亡くなるとなっているが、史実は78歳で放免となり、京に戻りおそらく妻と二人で余生を送りそして80歳で亡くなっている。

 以下 抜粋です

 命には終わりあり。   能には果てあるべからず。

 秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず。

 恋は忍ぶ恋こそ最高のもの、二人だけの秘め事だからこそ味が濃くなる。公認された恋など、恋とは呼べぬ。味わいのあるのは禁断の恋と片恋だ。

 秘伝に曰く。そもそも芸能とは、諸人の心を和らげて、上下の感をなさん事、寿福増長の基、かれい延年の方なるべし。

 能という芸は、一般大衆に愛され支持されることを基礎として座が成り立っている。 能を演ずる立場としては、つねに初心のころの新鮮な気分をわすれないように。

 能に仕立てた『葵上』では、六条御息女が嫉妬の鬼になり、おどろおどろしい般若の面をつける。口が耳まで裂け、角を生やした、まさに怨念の凝縮したようなすさまじい鬼面である。心が鬼になる人間の哀切さこそ、能の大きな主題になりえる。