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メメント・モリ   藤原新也

2009年06月25日 20時24分26秒 | Books

 もう7~8年前になるか、南信の駒ヶ根美術館に行った時にこの藤原新也さんのメメント・モリの写真を初めて見た。 イヌに食われている死んだ人の写真にゾットしたのを覚えていた。その後もう一度見ることがあった。その時には、『人間は犬に食われるほど自由だ』という言葉を覚えた。 今回新聞にこの人の記事が載っていたので思い切って手にしてみた。

 藤原信也さんは写真家なので写真集であるのは当たり前なのだが、実際手にしてみてようやくそれとわかった。一枚一枚の写真に彼の短いコメントが記せられている。

 先ず最初に 『ちょっとそこのあんた、顔がないですよ』とあるが、私には余計なお世話だと言い返したい気持ちになる。これが俺の顔なのだ。人の顔色を見て自分の顔を変えるつもりはないのだ!

 『いのちが、見えない。生きていることの中心(コア)がなくなって、ふわふわと綿菓子のように軽く甘く、口で噛むとシュッと溶けてなさけない。 死ぬ事も見えない。  中略  本当の死が見えないと本当の生も生きられない。』 死というと、死ぬ時の様子、或いは死後のこと、死による自己の消滅への恐怖、などがすぐに思い浮かべられる。 しかしそれらについては、自分の力ではどうしようもない事なのだ。 そう、大切なのは自分の死までの時間に、自分の生をいかに納得させられるか、何かを成し遂げられるか、いや途中で途切れてしまうか、どちらでも良い、自分の置かれた境遇の中でいかに精一杯努力したか、あるいは自己の生き方に満足できたかである。

 『にんげんは犬に食われるほど自由だ』 他者の視線に煩わされるな。 もう時間はそうは残されていないのだ。

 『死とは、死を賭して周りの者を導く、人生最後の授業。』 これと同じような言葉を茂木健の言葉にもあった。 今はこの言葉がどうもわが身に良く響いてくる。私の親父は心筋梗塞で2時間苦しんで、私が病院に着いたときには既に旅立ってしまっていた。その後、私はこの家の名目上実際上も家長となったのだ。 いつか私にもこのときが来る。 子ども達はどのように受け止めるであろうか。 なんだか少し先々を考えすぎて居るような気もするが、どうであろう?

 『黄色と呼べば、優しすぎ、 黄金色と呼べば、艶やかに過ぎる。朽葉色といえば、人の心が通う。』  そうです、生きているということは、この色になるという事です。地味な色ですが、軽すぎず、派手すぎず、奥の深い味わいのある色です。

 『ひとがつくったものには、ひとがこもる。だから、ものはひとの心を伝えます。ひとがつくったもので、ひとがこもらないものは、寒い。』 そうだね、心の籠もった物を作りたいね。そうでないと、寂しい。

花がゆれる。 花の影がゆれる。                 光には発情が、影には死が見える。                  死を想え。                           生の真っ最中                         光優々と、ふりそそぐ                     あの景色を見てから瞼を閉じる。

 いのちのある限り、精一杯努力し、生を味わい、             生を終える時 後悔せぬように。


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