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犠牲  わが息子・脳死の11日      柳田 邦夫

2009年11月13日 20時06分27秒 | Books

  犠牲  わが息子・脳死の11日   柳田 邦夫

 いつだったかこの前にこの本を手にしたのは。 今回 再び手にするきっかけとなったのは、著者のドキュメンタリー作家として、しかも御自分の体験を書いておられることからの深さというものを読みとりたかったからだ。 そして、自分にも同い年程度の3人の息子を持っているので、それと重ねて、読んでみたかった。

 息子さん 洋二郎さんは、ガルシアマルケスの 『百年の孤独』を、自分を作品の内部に同化させ、自分の実存を賭けて、読んだと。これは、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだと。

 洋二郎さんは 心を病んでいたという。そこで著者は『親では限界がある。同世代の何でも話し合える親友がいたら・・・。あるいは恋人がいたら・・・』と。  私も、周りの悩む子どもたちを見ていて、その原因を作るのも人間だが、そこから救ってくれるのも人間だと思っている。

 さてこの本は洋二郎さんが脳死状態になり、その間に脳死というものについて著者の体験からの考察が在る。              科学的に脳死の人はもはや感覚も意識もない死者なのだと説明されても、精神的な命の時間を共有し合ってきた家族にとっては、脳死に陥った愛する者の肉体は、そんな単純なものではないのだということを、私は強烈に感じたと。                     脳死とは脳幹を含む全脳死をいう。               死を大事にするとは、死にゆく時間を大事にすることだと思う。脳死を人の死とするなら、脳死から心停止に至る時間を、家族が死にゆく者と会話をし、受容し、納得してゆく貴重な時間としてとらえたい。

 その他、心に残った文章

 兄の言葉、 『洋二郎は死ということより、苦しみも悩みもない安らかな眠りが欲しかったんじゃないかな  』

 三好達治さんの言葉 『前触れもなくそれが汝の前に来て、かかる時ささやく言葉に信をおけ 静かな眼 平和な心 その他に何の宝が世にあろう   』

 草壁焔太さんの詩  『屈葬の形で 死んでいる 息子が 私には影法師のように 思える  ずっと この子から 目をそむけていたそれが この子の自殺であろう  息子が死んで 半年経って 人の子の死んだ話には ぼろぼろ 涙を流し  その荷を 下ろしなさいと いっても それは無理 息子の死骸だ』

 次に この本の題 犠牲 であるが  、ソビエト映画に『犠牲 サクリファイス』から、われわれが一日一日を平穏に過ごしていられるのは、この広い空の下のどこかで名も知れぬ人間が密かに自己犠牲を捧げているからではないかという内容からである。   この『名も知れぬ人間の密かな自己犠牲』にこの洋二郎は骨髄バンクに登録していた。 結果的には 骨髄ではなく2つの腎臓であった。

 息子さんがなくなた時 著者は、『兄は、洋二郎に頬ずりをし、私は黙って手を握っていた。私には死別という実感はなく、“洋二郎、またな”と声にならない別れをいった。』と。 

  追加  皇后陛下 美智子妃殿下 の言葉から

 自己犠牲という行動こそ戦後の日本人に欠落した道徳であり、戦後民主主義が全く教えることをしなかった規範ではないだろうか。   産経新聞より


映画 カムイ外伝     崔 洋一 監督

2009年11月11日 19時59分15秒 | Movies

  映画 カムイ外伝   崔 洋一 監督

 今年の正月に 読んだ 田中優子さん著の カムイ伝講義 を思い出して、観に行ってきました。 田中さんの著書では江戸時代の身分差別の在る世界の中でも、その世界の中では安心して暮らしてゆける。また、不満が在るときは、部落総出で代官に直訴、押し寄せてゆく、そうして社会を暮らしやすくしてゆく。そういった江戸時代の人々の生活を教えてくれた。 

 ま、残念ながら、私の期待とは異なり今流行のCGを駆使した アクション映画でした。 主人公の松山ケンイチさん、CGを使いながらも、この映画の為に、ずいぶん体を鍛えたであろうと思いました。

 

写真は 今年の庭での収穫の一部です。 トマトにゴーヤ 最後かな


サービスを超える瞬間   高野 登

2009年11月03日 20時42分31秒 | Books

 リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間    高野 登

 先の長野市長選挙で縁ができた高野さんの著書です。

 せっかく縁が出来たのに、選挙が終わればこの縁もお仕舞いではもったいない。

 何よりもたとえ一週間でも彼に賭けワクワクとしたひと時を味わわせてもらったそのお

 礼というか、その気にさせられた彼の姿をもっと知ってみたくて読んだ。

 彼の全ては、ホスピタリティの実現、 といってよいのではないか。

 ホスピタリティとは、彼のホテルの世界では おもてなしの心 であるという。

 しかし、長野市長選挙でわれわれの前に立った彼の姿には、単にホテル業界

 での心持ではなく、普通の人としての心持ちを示してくれていたように思う。

 おもてなしとまでは行かなくても、他者に対しての思いやり、気配り、ちょっとした

 心遣い、声掛け、そんなものが社会に和というものを広げてくれるのだという。

  高野さんの選挙前の車座集会で、彼がいきいきと夢を語ってくれた。その情熱

 にわれわれは動かされたのだ。彼の文中から、“パッションは、行動するエネルギ

 ー、人を動かすエネルギー、そして自分の夢に人を巻き込むエネルギーです。”

 まさに彼の行動は、リッツ・カールトンが持っているフィロソフィーと一致している。

 さて、わが身に振り返ってみて、日野原重明さんの言葉に“高齢になっても、或い

 は障害や病気を持っていてもいきいきと活躍している人がいる。彼らにはスピリッ

 ツがあるのだ。”という言葉を思い出す。 私も病を得てから、無理はしなくなった。

 と同時に夢、そして それを実現しようといったスピリッツも失ってきているようだ。

 正直、隠居生活に近い。 仕事もその日が賄えればそれで良いと言った程度。  

 今からでもスピリッツが沸くような夢はないものか。

 先日の 高野 登 に賭ける といったのはなんだったんだろう。