大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

私の運動史(連合静岡時代 その30)

2016年05月12日 | 労働者福祉
第21回定期大会(10年10月)において提案した第2弾の「地域に根ざした…~労働運動の原点は現場にあり~」議案書を引っ提げて、1年かけて「各地協との対話集会」と「執行委員との対話集会」を展開してきました。
これらの対話集会で出された意見を基にして、まずは連合静岡事務局で議論の荒ごなしをしました。
その後、3役会・執行委員会・地協代表者会議などで議論を重ね、地域に根ざした顔の見える労働運動の「実現に向けた行動指針」をまとめあげました。
それを第22回定期大会(11年10月)において第3弾の第1号議案「地域に根ざした…~実現に向けた行動指針~」として提案します。

この議案書の中にはすべての「対話集会議事録」と事務局会議における「荒ごなし資料」も掲載しました。

そして私たちが目指す「地域に根ざした顔の見える労働運動の姿」を、3つの姿として次のように定義づけました。

それは“地域に役立つ、地域から頼りにされる存在になることである”
それは“仲間の輪を広げ続ける…である”
それは“本音で話せる場をつくることである”

2012年度の対話集会はこの議案書を用いましたが、2年間の対話集会を通してとても大切なことを学びました。
コミュニケーションをとることの難しさや、トップダウンの限界性、そしてなによりも一方通行ではなく“一緒に考える”対話活動の効果です。
私が強烈に組織学や心理学に興味を持ったのはそれからのことでした。

(つづく)

私の運動史(連合静岡時代 その29)

2016年05月11日 | 労働者福祉
2005年10月の第16回定期大会で連合静岡事務局長に就任以来、あっという間に4年の時が過ぎていきました。
第1段階の改革は、私たちの組織が目指すべき目標・目的を「連合評価委員会」が示すところに置くことを確認し共有することでした。
第2段階の改革は、この運動を全県的に推進するために「地域に根ざした顔の見える労働運動」を旗印とし、東・中・西の“ブロック制”を導入したことでした。
そしてこの4年間の活動を総括したうえで第3段階に臨むために、第21回定期大会では第1号議案として「労働運動の原点は現場にあり」を提案し、事務局や地協・産別構成組織と「対話集会」を行いました。
第1号議案書には、それぞれの組織と議論するポイントを克明に表しました。

そのポイントは具体的には労働組合の生命線である“組織対策機能”の充実についてですが、今読み直しても参考になる議案書です。
また第4段階の改革として考えている“教育機能”の充実についても、「労働界における人材育成システムの構築に向けて」として対話集会の議題としました。
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(つづく)

私の運動史(連合静岡時代 その28)

2016年05月10日 | 労働者福祉
興味を覚えるとなんでも体験したくなる性質の私、福祉基金協会から勧められた「災害ボランティア・コーディネーター養成講座」を受講したのは2008年12月のことでした。
連合東海ブロックでもいざという時の防災連携体制を考えていこうと検討中でしたから、その参考にしようとも考えての参加でした。
受講された方々は防災意識の高い人ばかりで圧倒されましたが、その時に「静岡県ボランティア協会」の存在を強く意識しました。
いざという時には素人同然の私たちがなにかしようと動くのではなく、防災プロも集うボラ協の下で協働して動いたほうがよいと感じたのです。

翌年、ボラ協からの依頼もあって連合静岡として運営委員会へ参画し、天野事務局長が「災害ボランティア図上訓練」へ参加したりして繋がりを深めていきました。
2011年3月11日、あの東日本大震災が発生します。
連合本部は東京発のボランティアを産別中心に募ります。
連合本部のボランティア派遣は最低1週間の派遣ですから、地方連合では独自にそれぞれショート派遣を計画していきました。
そんな時、県ボラ協から岩手県への派遣要請が来ます。
連合静岡では急きょ「連合静岡災害対策本部」を立ち上げ、澤崎之局長を中心にその後の対応を図ります。
ボラ協ではみなさんからのカンパ金を基にして、岩手県遠野市にボランティアのための拠点としてプレハブ2階建てのハウスを造ります。
静岡労金からもボランティアが寝泊まりできる大型のエアーテントを寄贈します。
そして木曜夜発ち月曜朝着のボランティアを県内各地から募りました。
毎週計画されるこのボランティアツアーに、毎回5名の連合静岡枠をいただき便乗させてもらいました。
募集をかければ翌日には埋まってしまうほどの盛況ぶりにびっくりさせられました。
11年3月11日ブログ3月29日ブログ


2008年1月28日、面白い青年を新聞記者から紹介されます。
当時話題に上っていた派遣切りにあった労働者や行き場を失った人たちの居場所でもある「ネットカフェ店長」の鈴木和樹氏です。
静岡版の「反貧困たすけあいネットワーク」をつくりたいと夢を語ってくれた彼は、現在「NPO法人POPOLO」や「フードバンクふじのくに」で中心的に活躍してくれています。
参考までに「フードバンクふじのくに」設立に至る経過も簡単に記しておきます。
2009年7月、中央労福協は地方労福協会議で「フードバンク」について課題提起を行います。
これを受けて静岡県労福協では平野会長名で「フードバンク静岡(仮称)設立検討委員会」への参加を関係7団体に呼びかけました。
10月28日に開かれた学習会でセカンドハーベスト・ジャパンの秋元氏から説明を受け、その練り上げられた組織に感心した記憶があります。
その後「設立検討会」は小休止し「フードバンクを考える研究会」として県労福協を中心に継続していきます。
具体的に動き始めたのは2013年のことでした。
そして2014年5月19日「フードバンクふじのくに」設立総会が開かれました。

(つづく)






私の運動史(連合静岡時代 その27)

2016年04月28日 | 労働者福祉
伝えるということは今も昔も組織活動の基本にあります。
しかしこの簡単そうなことが実は一番難しいんですね。
それは組織に限らず、親子間でも夫婦の間でも、友人間でも仕事仲間でも同様です。
なかなか伝わらないからと言ってあきらめるとコミュニケーションはゼロになります。
だから継続することが大切です。

私の育った小糸製作所労組では、専従者を2名置いた昭和39年(1964年)8月28日から現在に至るまで、日刊機関紙「きずな」を毎日発行しています。
それが当然のことと思っていた新任役員の私の日課は、先輩の書いた「きずな」を毎日毎日印刷することでした。
翌日の朝になると始業前に全職場に配布しますから、どんなに遅くなっても朝までには2000部あまりの機関紙印刷を終えねばなりません。
その当時はガリ切りは機械でやってくれましたが、以前は手作業のガリ切りでしたから大変な苦労だったと思います。
初めて「きずな」の原稿書きをやらされたときは緊張しました。
下手な字で書いた原稿を赤ペンで何回も何回も修正されて完成した「きずな」は今思えばとても人前に出せるような代物ではありませんでした。
何十枚も書いていくうちに組合員が読んでくれるような記事(会社からは嫌われたりもしましたが?)を書けるようになると楽しくなってきます。
毎日毎日続くこの「きずな」は、会社との強力な交渉ツールにも育っていきました。

連合静岡時代は「南町の独り言」というブログを始めました。
土日も含めて毎日書こうという決意で始めましたが、お酒が過ぎると更新できない日も多くありました。
そんなブログを参考にして、「地協ブログ」や「スタッフブログ」もいつしか生まれます。
06年5月13日ブログ07年1月24日ブログ10年1月25日ブログ

認知度を向上させようという意識から事務局内に「認知度向上PT」が立ち上がり、ラジオ番組「わたしたち働く人の味方です」がスタートしたり、県内各地協と連携した「労働相談街宣活動」も活発になってきました。
すべては“伝える”という意識の向上から生まれたものです。
10年1月13日ブログ

(つづく)

私の運動史(連合静岡時代 その26)

2016年04月27日 | 労働者福祉
2005年11月、湖西市で痛ましい事故が起きました。
交差点で信号無視の車に正面衝突され、同乗していた2歳の理子ちゃんを失った山岡さんの家族は悲嘆にくれます。
ところが犯人は日系ブラジル人であったため、警察が拘束する前にブラジルへ帰国してしまいました。
亡くなった理子ちゃんの墓前に一度も詣でることなく…。

日本とブラジルは、犯罪人引渡し条約がなく、さらにブラジルでは、ブラジル国民はブラジル国内にいる限り他国の司法機関に訴追を受けることがない、と憲法で決まっています。
ですから帰国した容疑者は、何の処罰もされず、何事もないようにブラジルで暮らしていけるのです。
愛児を失った山岡さんご夫妻は、この不条理に立ち向かうべく、犯罪者引渡し条約、そして代理処罰を実現すべく署名活動を始めたましたが、目標とすべく10万筆には遠く届いていませんでした。

そのことを私が知ったのは親交のあったアスモ労組元委員長の古沢氏からの電話です。
連合静岡の力を貸してほしいと頼まれてまずは平野会長とも相談をしました。
その際に「連合の署名活動」についてのルールを知るのですが、痛ましい事件は私たちの琴線にふれるものでもありましたから、ご家族とも連絡を取って協力していく方向で進めることを確認しました。
そして06年5月執行委員会で署名活動の承認をいただき、全県下で署名活動を展開することとします。
加えて連合東海ブロックにも提案し共感をいただき、東海ブロック全体でも署名活動を協力いただけることとなりました。

その結果、連合東海ブロック全体で29万人の署名が集まり、山岡さんの手元にはなんと66万もの署名が寄せられたのです。
06年5月22日ブログ
そしてこの連合静岡の運動成果は思わないところに現れました。

静岡新聞の9月9日読者投稿欄「ひろば」で大変嬉しい投書を読みました。
主題は「犯罪阻止願う66万人に拍手」です。
ブラジルの犯罪人引渡し条約締結運動で連合静岡が「連合東海ブロック」にも呼びかけて29万人余の署名を集めた活動に対しての投書ですが、本文の一部を紹介してみます。

『連合東海ブロックは業種を超えた人たちの協力と行動の結果で、その組織力の強さをまざまざと見せた。
最近の労組の組織力低下はひどく、求心力を失い「労組はその原点に立つべき」だともささやかれ、安全安心の職場も問われている。
連合29万人の署名に拍手を送りたい。』
06年9月10日ブログ

どんな壁でも必要とあらば乗り越えられることをふたつの署名活動で勉強させられました。

(つづく)