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2月8日、さいたま文学館(埼玉県桶川市)に作家の“京極夏彦”氏がやってきます。
特別記念講演会で、タイトルは
「“あやしい”特別講演会~怪談、妖怪、またはミステリーとして」。
喉から手が出るほど行きたい。
京極氏を目にしたい。
でも、こういうときに限って仕事とまるかぶり。
断腸の想いとはこんなときに使うのでしょうか。
現在、さいたま文学館では太宰治展を開催中ですが、
僕にとって京極夏彦氏もまた青春の人。
高校時代に何を読んだかと問われたとき、
作家の中に「太宰治」と「京極夏彦」の名前は必ず頭に思い浮かびます。
氏の駆け出しの時期と、僕の在学時代が重なっているからかもしれません。
デビュー作『姑獲鳥の夏』が刊行されたのは1994年のこと。
『魍魎の匣』と『狂骨の夢』は1995年。
そして、『鉄鼠の檻』と『新絡婦の理』の刊行は1996年でした。
羽生の書店に平積みになっていたものです。
当時、読書好きのクラスメイトから「京極夏彦」の名前を教えてもらったのを覚えています。
それは1995年秋のことで、実際に手に取ったのは年が明けてからでした。
夏に『姑獲鳥の夏』を初めて読み、
秋に『魍魎の匣』、
京極氏を紹介したクラスメイトが一押しした『狂骨の夢』は冬に、
そして卒業する春には『新絡婦の理』。
『鉄鼠の檻』は冬が過ぎていたので在学中に読みませんでしたが、
京極氏の初期作品群は忘れがたい読書体験として記憶しています。
僕はどちらかというと衒学的な作品が好きです。
というのも、京極氏と堺屋太一の『秀吉』を同時期に読んだせいかもしれません。
情報量がたくさんつまっていて、
執筆者の背景に膨大な蔵書を感じさせるような作品。
調査もしくは研究しなければとても書くことができない。
読み手の知識量や読書量が求められる。
それを論考としてではなく、物語として世界を作り上げる。
そんな作家の仕事に強く惹かれたのが1996年でした。
高校生の頃ですから、京極氏の作品に書かれた情報量をどれほど読み取れたのかは疑問です。
でも強烈に惹かれるものがありました。
僕に京極氏を紹介したクラスメイトもそうだったのでしょう。
膨大な知識量を感じさせる作品。
すなわち、本の匂いのする本。
そんな1996年の読書体験は、自分の目指したい方向を決定づけた気がします。
クラスメイトもそうだったのかはわかりませんが、
現在彼は大学で教鞭を執っていて、学生に教えているのは「図書館学」。
本の匂いを放っているのは1996年と変わりません。
本を読む人は異彩を放っています。
クラスメイトはどちらかと言えば目立つタイプではありませんでしたが、
間違いなく異彩を放っていました。
純然たる「個」を持ち、彼の紡ぐ言葉はほかの同級生とは異なっていたのです。
彼だけでなく、本を読んでいる同級生は得てして異彩を放ち、
どこか心に孤独を抱えていたように思えます。
孤立ではなく孤独。
孤独を抱えているから本を読むのか、
それとも本を読むから孤独なのかはわかりませんが、
彼らの紡ぐ言葉や思考には独特の深みがあったことは確かです。
平凡な僕はそんな異彩を放つ彼らに惹かれ、
まるで一冊の本を読むように言葉の世界に浸っていたのかもしれません。
特別記念講演会で、京極夏彦氏が紡ぎ出す言葉はどんなものなのでしょう。
どのような世界観が繰り広げられるのでしょうか。
僕はいまも京極夏彦氏の初期作品を手に取ると、
活字の向こうに1996年の季節が透けて見える気がします。
遠い20年以上前の過去。
そこには17歳の僕自身も見えますが、
かげろうのようぼんやりして、すぐに消えてしまいます。
摑まえたくても摑まえられない。
口にできなかった、忘れかけた言葉の余韻を残して……
特別記念講演会で、タイトルは
「“あやしい”特別講演会~怪談、妖怪、またはミステリーとして」。
喉から手が出るほど行きたい。
京極氏を目にしたい。
でも、こういうときに限って仕事とまるかぶり。
断腸の想いとはこんなときに使うのでしょうか。
現在、さいたま文学館では太宰治展を開催中ですが、
僕にとって京極夏彦氏もまた青春の人。
高校時代に何を読んだかと問われたとき、
作家の中に「太宰治」と「京極夏彦」の名前は必ず頭に思い浮かびます。
氏の駆け出しの時期と、僕の在学時代が重なっているからかもしれません。
デビュー作『姑獲鳥の夏』が刊行されたのは1994年のこと。
『魍魎の匣』と『狂骨の夢』は1995年。
そして、『鉄鼠の檻』と『新絡婦の理』の刊行は1996年でした。
羽生の書店に平積みになっていたものです。
当時、読書好きのクラスメイトから「京極夏彦」の名前を教えてもらったのを覚えています。
それは1995年秋のことで、実際に手に取ったのは年が明けてからでした。
夏に『姑獲鳥の夏』を初めて読み、
秋に『魍魎の匣』、
京極氏を紹介したクラスメイトが一押しした『狂骨の夢』は冬に、
そして卒業する春には『新絡婦の理』。
『鉄鼠の檻』は冬が過ぎていたので在学中に読みませんでしたが、
京極氏の初期作品群は忘れがたい読書体験として記憶しています。
僕はどちらかというと衒学的な作品が好きです。
というのも、京極氏と堺屋太一の『秀吉』を同時期に読んだせいかもしれません。
情報量がたくさんつまっていて、
執筆者の背景に膨大な蔵書を感じさせるような作品。
調査もしくは研究しなければとても書くことができない。
読み手の知識量や読書量が求められる。
それを論考としてではなく、物語として世界を作り上げる。
そんな作家の仕事に強く惹かれたのが1996年でした。
高校生の頃ですから、京極氏の作品に書かれた情報量をどれほど読み取れたのかは疑問です。
でも強烈に惹かれるものがありました。
僕に京極氏を紹介したクラスメイトもそうだったのでしょう。
膨大な知識量を感じさせる作品。
すなわち、本の匂いのする本。
そんな1996年の読書体験は、自分の目指したい方向を決定づけた気がします。
クラスメイトもそうだったのかはわかりませんが、
現在彼は大学で教鞭を執っていて、学生に教えているのは「図書館学」。
本の匂いを放っているのは1996年と変わりません。
本を読む人は異彩を放っています。
クラスメイトはどちらかと言えば目立つタイプではありませんでしたが、
間違いなく異彩を放っていました。
純然たる「個」を持ち、彼の紡ぐ言葉はほかの同級生とは異なっていたのです。
彼だけでなく、本を読んでいる同級生は得てして異彩を放ち、
どこか心に孤独を抱えていたように思えます。
孤立ではなく孤独。
孤独を抱えているから本を読むのか、
それとも本を読むから孤独なのかはわかりませんが、
彼らの紡ぐ言葉や思考には独特の深みがあったことは確かです。
平凡な僕はそんな異彩を放つ彼らに惹かれ、
まるで一冊の本を読むように言葉の世界に浸っていたのかもしれません。
特別記念講演会で、京極夏彦氏が紡ぎ出す言葉はどんなものなのでしょう。
どのような世界観が繰り広げられるのでしょうか。
僕はいまも京極夏彦氏の初期作品を手に取ると、
活字の向こうに1996年の季節が透けて見える気がします。
遠い20年以上前の過去。
そこには17歳の僕自身も見えますが、
かげろうのようぼんやりして、すぐに消えてしまいます。
摑まえたくても摑まえられない。
口にできなかった、忘れかけた言葉の余韻を残して……
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