クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

「その時歴史が動いた」。サッカーと“昭和43年”はどう動いていた?

2007年11月08日 | 利根川・荒川の部屋
昭和43年(1968)のメキシコオリンピックにおいて、
銅メダルに輝いたサッカー日本代表。
日本に招かれた“クラマー”監督は、どん底だったチームを基礎から鍛え上げ、
根本から作り替えていきました。
そして、クラマー監督が作り上げた日本代表は、
オリンピックで躍進し銅メダルに輝きます。

「その時歴史が動いた」(NHK)では、その軌跡を描いていました。
タイトルは「メキシコ五輪 奇跡の銅メダル ~日本サッカー・勝てる組織作り~」。
主旨はサッカーそのものを見るのではなく、
チームという組織がどのような改革で成長したのかを探るものでした。
それはまるで「プロジェクトX」のよう……。

ところで、昭和43年はちょうど日本が高度経済成長へ向かっていた時代。
霞ヶ関ビルが完成し、
川端康成のノーベル文学賞受賞や3億円事件が起こった年です。
物質的にどんどん豊かになっていく状況の中で、
ストイック漫画「巨人の星」がアニメ化され人気を博しました。

実はこの年の春、北埼玉では“利根大堰”が完成。
昭和39年の東京オリンピックを機に水の需要が見直され、
利根川に堰を設けて、新たに導水するものでした。
ここで堰き止められた水は埼玉用水、見沼代用水、武蔵用水に取水され、
飲み水あるいは灌漑として使用されます。
東京オリンピック閉幕後、クラマー監督がいなくなったチームが日々練習を重ねていた頃、
利根大堰計画は着々と進んでいました。

そして、メキシコオリンピックで日本代表が初の銅メダルに輝いた年、
利根大堰は完成。
これと同時に埼玉県羽生市では、
およそ300年間通水してきた葛西用水路の取水口が締め切られました。
利根大堰の完成に伴い、その役割を終えたのです。

葛西用水路は日本三大農業用水のひとつです。
万治3年(1660)に“伊奈忠克”によって開削され、
長きにわたって広大な田畑を潤してきました。
その元圦が羽生市本川俣に設置され、利根川から直接取水していたのです。
(万治3年の開削当時の呼び名は“幸手領用水”)

しかし、昭和43年に利根大堰が完成し、
葛西用水路は埼玉用水路から取水されるようになると、
本川俣の元圦は廃止。
新しい時代の到来と共に、取水口は締め切られました。

時代の波が大きく押し寄せていた昭和40年代。
現在放映されている「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の舞台より数年後の時代です。
日本では未来を切り拓く数々の“プロジェクトX”があり、
その一方で終わりを迎えたものも多くあったのでしょう。

しかし、歴史は時代へ繋ぐバトンタッチのようなもの。
クラマー監督と当時の選手の活躍があって現在のサッカーがあるように、
本川俣から取水した水は広大な田畑を潤し、
豊穣な大地を育んだのです。






※現在、本川俣の元圦から川俣小学校付近まで、
 用水路沿いは画像のように彩られています。
 現在、葛西用水路元圦は公園として整備され、
 憩いの場となっています。

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