クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

狭間の花崎城(23) ―子ども昔語り(103)―

2007年11月08日 | 子どもの部屋
羽生城救援が失敗に終わった上杉謙信。
北条氏政はこのとき羽生の陣から、
今回の謙信進撃で防戦につとめた金山城主(群馬県金山)“由良国繁”に対し、
褒美として刀を送っています。

氏政の目は羽生城ではなく、関宿城に向いていました。
関宿を手中に収めることは、
一国を得るのに等しいと言われる土地です。
父氏康のこの言葉を、氏政も同じように考えていたのでしょう。

武蔵国で上杉方の城はもはや羽生城だけであり、
関宿城を陥落させれば自落は自明のことでした。
羽生城を力攻めにして自軍の兵を損ねるより、
関宿城攻略がまず先決です。
そこで氏政は総攻撃を仕掛けることなく、
羽生から陣を引き払いました。

ところで、羽生城がこうした危機にさらされている中、
支城である“花崎城”(埼玉県加須)では何が起こっていたのでしょう。
実は、上杉謙信と北条氏政が利根川を挟んで対峙している頃、
花崎城ではひとつの局面を迎えていました。
それは、天正2年5月4日に北条氏繁が書き綴った書状の中に、
次のように記されています(並木文書)。

 然而羽生被寄馬候処、近年向岩付取立候号花崎地、即時自落
 (羽生へ馬を寄せたところ、近年岩付城に取り立てた花崎城が即自落した)

すなわち、前年から羽生城攻略にあたっていた北条氏繁が、
このたびの上杉謙信との戦いに出陣すると、
花崎城はすぐに自落したと伝えているのです。

この城は越相同盟の決裂時に、謙信が改めて取り立てた(と考えられる)城です。
古くから北条方の城と言われてきた花崎城でしたが、
この文書によって羽生城の支城であったことがわかります。
かくして謎多きこの城は、
天正2年4、5月時点では上杉方であったことと、
北条氏繁の羽生侵攻によって自落したことが明らかになったのです。
(「狭間の花崎城(24)」に続く)

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