中学時代の同級生のT君は伊豆が好きで、
月に1、2回は行っているという。
伊豆を舞台にした映画を観たのがきっかけらしいが、
心療内科を受けている彼にとって治療の一環になっているのかもしれない。
いつも通っている道に城跡を示す看板があるという。
そこに何と書かれているのか思い出せず、
消息を絶った同級生のようにモヤモヤしていたが、
伊豆へ向かったT君からのメールで「山中城」ということが判明した。
なるほど、言わずと知れた国指定の史跡である。
特徴ある障子堀が現存していることがよく知られていて、
その堀見たさに子どもがまだ小さいときに足を運んだのを覚えている。
4月も1ヶ月を過ぎたというのに、妙に気持ちが落ち込むことがある。
心とは別のところでクスリが増えた。
血液と心は案外つながっているのかもしれない。
すぐに伊豆へ行けそうもないから、家で史料を紐解き、脳内で山中城へ向かった。
豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすべく小田原進攻を開始したとき、
山中城は足柄城と並んで防波堤の1つだった。
換言すれば、後北条氏にとって、
山中城と韮山城でどれだけ豊臣勢の進攻を食い止められるかがネックだったことになる。
とはいえ、かつてない大軍が押し寄せてくることは北条方も認識しており、
山中城加勢5千人で、「天下之大軍」を相手に防戦するほかなく、
小田原本城に加勢を申し出ても承諾されなかった。
北条氏勝は「山中城一日と持候事難成、弥討死ニ極候」と、玉縄城を預けた堀内勝光へ宛てて書き送り、
もし山中城落城の知らせを受けたならば、最後まで籠城して戦うよう指示している。
そして、こう続ける。
惣曲輪・二ノ丸迄被破候ハヽ、本丸へ取籠、母儀ヲ差殺、城ニ火を掛、其方自害尤ニ候
(「堀内文書」)
玉縄城が次々に攻め破られたならば、本丸に籠り、氏勝の母親を殺し、火をかけ、
勝光も自害せよいう。
この文言からは、絶望と覚悟が読み取れる。
天正18年(1590)3月29日、山中城は本城の想定を上回る速さで陥落した。
北条氏勝は自害を止められ、玉縄城へ移って籠城戦を展開したが、
山中城兵数千人は討ち取られたという。
豊臣秀吉は、4月1日付で「理性院」に宛てて山中城落城について知らせている。
此面儀昨日廿九中納言山中城ヘ被懸、則時責崩、城主其外数千人討捕、即至箱根峠居陣候、急与小田原江相動、北条可刎首候 (「理性院文書」)
山中城を落とし、この勢いで小田原城に迫り、北条氏の首をはねると述べている。
秀吉の圧勝モードが漂う。
とはいえ、北条方も奮戦しており、豊臣勢の犠牲は少なくなかったという。
ちなみに、豊臣勢の小田原攻めでは関東の諸城が攻撃を受けており、
群馬県の北条方の城も例外ではなかった。
秀吉から山中城落城の知らせを受け取った真田昌幸は、
上野国中を攻め入って放火し、松井田城も撃破した報告を石田三成に送った。
然者、此表之儀、上野国中悉放火仕、其上松井田之地根小屋撃碎、致詰陣、
仕寄申付候、聊不及油断候、此等之趣宜預披露候 (「真田家御事蹟稿」)
関東統一を目指して勢力拡大を続けてきた後北条氏の夢が崩れていくさまが、
こうした史料から読み取れる。
場所のみならず、時空を超えて往時へ誘うのも史料ならではだろう。
あとは、伊豆で海釣りをしたT君から土産話を聞いて、
歴史の海へ釣り糸を垂らせばなお良しかもしれない。
月に1、2回は行っているという。
伊豆を舞台にした映画を観たのがきっかけらしいが、
心療内科を受けている彼にとって治療の一環になっているのかもしれない。
いつも通っている道に城跡を示す看板があるという。
そこに何と書かれているのか思い出せず、
消息を絶った同級生のようにモヤモヤしていたが、
伊豆へ向かったT君からのメールで「山中城」ということが判明した。
なるほど、言わずと知れた国指定の史跡である。
特徴ある障子堀が現存していることがよく知られていて、
その堀見たさに子どもがまだ小さいときに足を運んだのを覚えている。
4月も1ヶ月を過ぎたというのに、妙に気持ちが落ち込むことがある。
心とは別のところでクスリが増えた。
血液と心は案外つながっているのかもしれない。
すぐに伊豆へ行けそうもないから、家で史料を紐解き、脳内で山中城へ向かった。
豊臣秀吉が後北条氏を滅ぼすべく小田原進攻を開始したとき、
山中城は足柄城と並んで防波堤の1つだった。
換言すれば、後北条氏にとって、
山中城と韮山城でどれだけ豊臣勢の進攻を食い止められるかがネックだったことになる。
とはいえ、かつてない大軍が押し寄せてくることは北条方も認識しており、
山中城加勢5千人で、「天下之大軍」を相手に防戦するほかなく、
小田原本城に加勢を申し出ても承諾されなかった。
北条氏勝は「山中城一日と持候事難成、弥討死ニ極候」と、玉縄城を預けた堀内勝光へ宛てて書き送り、
もし山中城落城の知らせを受けたならば、最後まで籠城して戦うよう指示している。
そして、こう続ける。
惣曲輪・二ノ丸迄被破候ハヽ、本丸へ取籠、母儀ヲ差殺、城ニ火を掛、其方自害尤ニ候
(「堀内文書」)
玉縄城が次々に攻め破られたならば、本丸に籠り、氏勝の母親を殺し、火をかけ、
勝光も自害せよいう。
この文言からは、絶望と覚悟が読み取れる。
天正18年(1590)3月29日、山中城は本城の想定を上回る速さで陥落した。
北条氏勝は自害を止められ、玉縄城へ移って籠城戦を展開したが、
山中城兵数千人は討ち取られたという。
豊臣秀吉は、4月1日付で「理性院」に宛てて山中城落城について知らせている。
此面儀昨日廿九中納言山中城ヘ被懸、則時責崩、城主其外数千人討捕、即至箱根峠居陣候、急与小田原江相動、北条可刎首候 (「理性院文書」)
山中城を落とし、この勢いで小田原城に迫り、北条氏の首をはねると述べている。
秀吉の圧勝モードが漂う。
とはいえ、北条方も奮戦しており、豊臣勢の犠牲は少なくなかったという。
ちなみに、豊臣勢の小田原攻めでは関東の諸城が攻撃を受けており、
群馬県の北条方の城も例外ではなかった。
秀吉から山中城落城の知らせを受け取った真田昌幸は、
上野国中を攻め入って放火し、松井田城も撃破した報告を石田三成に送った。
然者、此表之儀、上野国中悉放火仕、其上松井田之地根小屋撃碎、致詰陣、
仕寄申付候、聊不及油断候、此等之趣宜預披露候 (「真田家御事蹟稿」)
関東統一を目指して勢力拡大を続けてきた後北条氏の夢が崩れていくさまが、
こうした史料から読み取れる。
場所のみならず、時空を超えて往時へ誘うのも史料ならではだろう。
あとは、伊豆で海釣りをしたT君から土産話を聞いて、
歴史の海へ釣り糸を垂らせばなお良しかもしれない。
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