クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

天神の森(8)―創作―

2007年01月31日 | ブンガク部屋
     5

龍神の池を後にして、僕たちは来た道をまた戻り始める。
お互い言葉を交わさず、足取りはどことなく重かった。
僕は両手を上着のポケットに突っ込み、足元を見ながら歩いた。
絡みつく落ち葉に、靴の中まで水滴が染み込んできている。
気温も下がっているのか、手足の指先がひどく冷たかった。
龍神の池を出てからどのくらい経ったか分からない。
森の中の湿った匂いが濃くなったとき、
ふと顔を上げると辺りに霧が立ちこめているのに気付いた。
前を歩く乙次郎さんの背中は青白くぼやけ、あまり濃くはないが、
視界を遮るのに充分だった。

「ねえ、霧が……」
僕は辺りを見渡しながら言った。
「嫌なもんが出てきた」
「帰り道は大丈夫なんかい?」
「なに、心配せんでもだいじゅ(大丈夫)だで。目を瞑ったって出られるよ」
明るく答えた乙次郎さんの言葉に、僕は小さく息を吐く。
確かに乙次郎さんは今まで何度もここへ来ているのだろう。
霧など何てことはないのかもしれない。
実際にしばらくすると、僕たちは二俣の木に辿り着いた。
霧に覆われて立つその姿は、まるで生きているように見える。
「さあ、あとひと息だ。霧が濃くならん内に出てしまおう」
乙次郎さんは笑顔で言う。
僕もそれにつられて微笑む。
二俣の木を横切り、少し足を速めた。
しかし、霧はだんだん濃くなっていく。
辺りはほとんど見えず、僕たちの足音以外何も聞こえてこなかった。

僕たちは黙々と歩き続けた。
二俣の木を出てからだいぶ時間が経ったように思えたが、出口は見えてこない。
体も冷え、僕は何度も手に息をかけた。
そろそろ着いてもおかしくはなかったし、
せめてお囃子の音が聞こえてきてもよかった。
乙次郎さんも様子がおかしいことに気付いたのかもしれない。
さらに足を速め、しきりに辺りを見回すようになった。
僕には二俣の木以外の目印はわからない。
うしろを振り向いても、月の光りに照らされた霧が、青白くたちこめているだけだ。
境内の明かりはどこからも洩れていない。
僕はただ乙次郎さんの後ろをついていくしかなかった。

やがて行き当たった大きな枯木の前で、僕たちの足は止まった。
いや、立ち止まらずにはいられなかった。
上から貫く大きな裂け目に根元に横たわる石碑。
それは二俣の木だった。
「あれ、おかしいで……」
乙次郎さんは首を傾げて言った。
ポカンと口を開けて二俣の木を見上げる。
僕もその横でゆっくり視線を向けた。
「どういうこと?」
「道を間違えたのかな……」
乙次郎さんは何度も首を傾げながら呟く。
実際、二俣の木に突き当たるのはおかしかった。
道は真っ直ぐ続いていて、大きく曲がることはないし、どこかを迂回することもない。
例え道を間違えたのだとしても不可解だった。
乙次郎さんは再び歩き始める。
深まる霧に、いつの間にか服や髪は湿っていた。
すでに靴下は濡れ、息も上がってきている。
僕たちは足を速めて、どんどん前に進んだ。
しかし、どんなに歩いても森が切れることはなく、
霧の中に佇む樹木がどこまでも広がっているだけだった。
(「天神の森(9)」に続く)

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