如啓先書、幾日大輪之陣ニ有之も、大河与云、水増与云、
為如何も其地江助成之義、依不成之、河ニ付押上、自朝至夕迄、
瀬々於為験候得共、瀬無之候条、無了簡爰元ニ立馬候
(「志賀槇太郎氏所蔵文書」)
4月13日、上杉謙信が羽生城将に宛てた書状の一部である。
無年号だが、天正2年(1574)と比定される。
春日山城を出馬した上杉謙信は関東に向かう。
利根川沿線で後北条氏に抗い、
「凶事眼前」の関宿城と羽生城を救援するためだった。
上杉勢は破竹の勢いで、膳城、山城城、女淵城を落とす。
上杉勢の強さは健在である。
北条氏政もこれに対応せざるを得ない。
3月27日に出馬。
謙信の南攻により、北条方の城には緊張が走った。
ところが、謙信の前に予期せぬものが立ちはだかる。
それは雪解け水で増水した利根川だった。
板東太郎の異名を持つ利根川は、関東きっての暴れ川である。
軍神と呼ばれる謙信といえども、さすがに一筋縄ではいかない。
上杉謙信が軍を止めたのは“大輪”という地だった。
いわば、ここで龍神と軍神の戦いの火蓋が切って落とされたといえる。
川を越えれば、羽生城はもう目の前である。
しかし、増水した大河は行く手を阻んで通そうとはしない。
謙信は朝から夕方まで川の様子を調べさせたが、どこにも浅瀬はなかった。
仕方なく大輪で陣を張ることになる。
利根川の水は一向に減る様子を見せない。
せめて、兵糧弾薬だけでも羽生城に運び込ませようと、
佐藤筑前守という者に命じた。
佐藤は舟を30艘並べて運び込もうとする。
しかし、対岸で虎視眈々と上杉勢の様子を窺っているのは、
北条氏政、氏繁、成田氏長らの軍勢だった。
佐藤筑前守はろくに地理探索をしなかったらしい。
北条・成田両勢の見付かるところとなり、
兵糧弾薬をまんまと奪われてしまうのである。
「一世中之不足おかき候事無念ニ候」と、
謙信は羽生城将への書状に悔しさを滲ませる。
とはいえ、その文面は謙信の言い訳じみた様子が窺えるのだが……。
結局、上杉謙信は利根川を渡ることはできなかった。
羽生城救援も失敗である。
大輪の陣を解き、利根川に背を向けるのだった。
いま、大輪の地から利根川を望んでも、
かつて軍神を退けたほどの勢いは見られない。
少し上流で堰き止められているせいもあるのだろう。
川はやせ細り、「板東太郎」の異名が遠い過去の勲章のようにさえ思える。
大輪はのどかな田園風景が広がっている。
かつてここに謙信の率いる上杉勢が着陣したと想像するのは難しい。
上野国の城を落とした上杉勢は血気盛んであり、
利根川を渡ることのできない苛立ちに包まれていたかもしれない。
あるいは、川を挟んで対陣する敵勢に士気を燃やしていただろうか。
しかし、謙信にとって大輪での陣は苦い記憶となる。
さすがの軍神も龍神には勝つことができなかった。
謙信は、煮え湯を飲まされたように退陣しただろうか。
このときの鬱憤を晴らすべく、川を越えて武蔵国の諸城に攻め寄せるのは、
同年秋のことである。
大輪から利根川を望む(群馬県邑楽郡明和町)
為如何も其地江助成之義、依不成之、河ニ付押上、自朝至夕迄、
瀬々於為験候得共、瀬無之候条、無了簡爰元ニ立馬候
(「志賀槇太郎氏所蔵文書」)
4月13日、上杉謙信が羽生城将に宛てた書状の一部である。
無年号だが、天正2年(1574)と比定される。
春日山城を出馬した上杉謙信は関東に向かう。
利根川沿線で後北条氏に抗い、
「凶事眼前」の関宿城と羽生城を救援するためだった。
上杉勢は破竹の勢いで、膳城、山城城、女淵城を落とす。
上杉勢の強さは健在である。
北条氏政もこれに対応せざるを得ない。
3月27日に出馬。
謙信の南攻により、北条方の城には緊張が走った。
ところが、謙信の前に予期せぬものが立ちはだかる。
それは雪解け水で増水した利根川だった。
板東太郎の異名を持つ利根川は、関東きっての暴れ川である。
軍神と呼ばれる謙信といえども、さすがに一筋縄ではいかない。
上杉謙信が軍を止めたのは“大輪”という地だった。
いわば、ここで龍神と軍神の戦いの火蓋が切って落とされたといえる。
川を越えれば、羽生城はもう目の前である。
しかし、増水した大河は行く手を阻んで通そうとはしない。
謙信は朝から夕方まで川の様子を調べさせたが、どこにも浅瀬はなかった。
仕方なく大輪で陣を張ることになる。
利根川の水は一向に減る様子を見せない。
せめて、兵糧弾薬だけでも羽生城に運び込ませようと、
佐藤筑前守という者に命じた。
佐藤は舟を30艘並べて運び込もうとする。
しかし、対岸で虎視眈々と上杉勢の様子を窺っているのは、
北条氏政、氏繁、成田氏長らの軍勢だった。
佐藤筑前守はろくに地理探索をしなかったらしい。
北条・成田両勢の見付かるところとなり、
兵糧弾薬をまんまと奪われてしまうのである。
「一世中之不足おかき候事無念ニ候」と、
謙信は羽生城将への書状に悔しさを滲ませる。
とはいえ、その文面は謙信の言い訳じみた様子が窺えるのだが……。
結局、上杉謙信は利根川を渡ることはできなかった。
羽生城救援も失敗である。
大輪の陣を解き、利根川に背を向けるのだった。
いま、大輪の地から利根川を望んでも、
かつて軍神を退けたほどの勢いは見られない。
少し上流で堰き止められているせいもあるのだろう。
川はやせ細り、「板東太郎」の異名が遠い過去の勲章のようにさえ思える。
大輪はのどかな田園風景が広がっている。
かつてここに謙信の率いる上杉勢が着陣したと想像するのは難しい。
上野国の城を落とした上杉勢は血気盛んであり、
利根川を渡ることのできない苛立ちに包まれていたかもしれない。
あるいは、川を挟んで対陣する敵勢に士気を燃やしていただろうか。
しかし、謙信にとって大輪での陣は苦い記憶となる。
さすがの軍神も龍神には勝つことができなかった。
謙信は、煮え湯を飲まされたように退陣しただろうか。
このときの鬱憤を晴らすべく、川を越えて武蔵国の諸城に攻め寄せるのは、
同年秋のことである。
大輪から利根川を望む(群馬県邑楽郡明和町)
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