クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生市内で目にする “城”の字は? ―バス停「城橋」―

2023年07月15日 | 羽生城跡・城下町巡り
羽生城の遺構は消えたが、羽生の町なかに散見される城の字。

バス停「城橋」は、その名のとおり葛西用水路に架かる城橋の近くに建っている。
城橋を東に向かって渡り、最初の信号を北に曲がって少し行ったところにある。

時代は異なるが、この道は小説『田舎教師』(田山花袋作)の主人公のモデル小林秀三の通勤路でもある。
建福寺(羽生市南1丁目)に下宿を始めた秀三は、町中を通って城橋を渡り、
勤め先である弥勒高等小学校まで歩いていった。

常にその道を使っていたのかはわからない。
気分転換に、たまには羽生城本丸比定地に向かって歩いたこともあったかもしれない。
とすれば、羽生城に想いを馳せることもあっただろうか。

ちなみに、『田舎教師』は忍城址に触れても、羽生城址に関する描写はない。
小説が書かれた明治後期において、城跡は消滅していたためだろう。
幕末に羽生城址に構築された陣屋によって、遺構の一切は消えたと伝わる。
田山花袋にとって、例え羽生城の存在を知っていたとしても、
遺構を失ったその城は心の琴線に触れるものでなかったに違いない。

田山花袋は『田舎教師』を書く上で、羽生に何度も踏査に来ている。
秀三の日記を参考に、彼の気持ちになってゆかりの場所を訪ね歩いたという。
とすれば、花袋自身も秀三の通勤路を歩いたのだろう。
『田舎教師』の書き出しである「四里の道は長かった」の一文は、
花袋の感覚・実感・体験そのものを表していると言える。

花袋もまた、踏査をしながら羽生城へ想いを馳せることはあったかもしれない。
幕末に城跡に構築された陣屋は、完成して間もなく官軍によって焼き滅ぼされた。
当時、灰燼に帰していく陣屋を実際に目にした人はまだ多かったはずである。
戦国時代というより、羽生における幕末の動乱を耳にしたように思われる。

往時は、アスファルト道路ではなかったし、いまほど道は広くなかった。
過去を偲ぶのは難しい。
しかし、バス停に立ちながら歴史に想いを馳せれば、
小林秀三や田山花袋、はたまた羽生城主広田直繁・木戸忠朝が目の前を通り過ぎていくかもしれない。
あるいは、ネコバスならぬ何かが、城橋を越えて駆け抜けてくるだろうか。
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