クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

埋もれた男“広田直繁”(31) ―松山城・皿尾城の攻略―

2007年07月07日 | ふるさと人物部屋
上杉謙信は小田原城攻めに失敗し越後へ帰るその途中、
武州松山城を攻略。
小田原を攻略できなかった鬱憤も少なからずあったかもしれません。
兵を引くと見せかけ城を急襲。
城主上田朝直は追い出され、
多くの城兵らは川に身を投げ命を落としたと伝えられています。
松山城は後北条氏に対するための重要な山城。
謙信にとって岩付城と共に死守したい拠点でした。
城将上杉憲勝を配置し、再び帰国の途につきます。

このときです。
謙信は忍城の出城にも攻撃を仕掛けています。
その城の名は「皿尾城」。
忍城主成田長泰は謙信の小田原城攻めからいち早く離反した人物です。
扇で打擲されて面目を失った長泰は再び北条氏康に寝返ったとされていますが、
もとより謙信への不満とわだかまりが強かったのでしょう。
乗っ取られた羽生城を長泰のものとせず、
直繁・忠朝に安堵したことは大なり小なりの動機を与えているはずです。

一方、義に厚い謙信にとって北条に寝返った長泰は許し難い存在です。
厩橋城へ向かう途中、忍城のすぐ北に位置する皿尾城を急襲し、
長泰から奪い取ってしまうのです。
そして、長泰の動向を監視するため、
謙信はこの皿尾城に忠朝を配置するのでした。
皿尾城主河田谷(木戸)忠朝の誕生です。
兄直繁は羽生城主、弟忠朝は皿尾城主という共同戦線を張り、
以後2人は羽生領を守っていくことになります。

もとより皿尾城は「城」と言っても忍城の出城。
その規模は小さく、「砦」の様相そのものでした。
それ単体で乱世を生き延びるのは難しく、
忠朝は羽生城も兼ねていたと考える方が自然です。
以後元亀元年まで、忠朝は皿尾に在城することとなります。
(「埋もれた男“広田直繁”(32)」に続く)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「山田太郎ものがたり」と「... | トップ | 7月8日生まれの人物は?(... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ふるさと人物部屋」カテゴリの最新記事