クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

取り逃がした武田信玄は大きい? ―三増峠の戦い―

2023年02月10日 | 戦国時代の部屋
戦国最強と謳われる武田信玄。
川中島合戦で上杉謙信と一騎打ちをした逸話はよく知られている。

謙信だけではない。
信玄は、戦国大名の後北条氏とも野戦を繰り広げている。
それは三増峠の戦い。
時は永禄12年(1569)のこと。

小田原城攻めから帰陣する武田勢を、
後北条氏が追撃した。
そもそも、後北条氏にとって本拠地である小田原を攻められるのはこれで2回目。
1度目は永禄4年(1561)に上杉謙信に攻められている。

籠城して事なきを得たが、城下を放火されている。
一矢報いたかったのかもしれない。
後詰として参じていた北条氏照と北条氏邦は、三増峠で武田勢を迎え撃つ。

信玄の耳にもこの情報が入っていた。
軍勢を二手に分けて進軍。
かくして、三増峠にて武田勢と北条勢が激突する。
さすがの武田勢も苦戦したらしい。
『北条記』は言う。

 甲州衆、最前ノ軍ニ悉カケマケ、信玄ノイトコ浅利監物ヲ初トシテ、多以討死也

このまま信玄の首に槍が届くのではないか。
北条勢の中にそう意気込む者もいただろうか。
しかし大名同士の合戦である。
そう簡単に雌雄は決しない。

二手に分けたもう一方の武田勢が三増峠に駆け付ける。
これにより流れが変わる。
次々に討ち取られる北条勢。
最強と謳われる軍勢だけに勢いは止まらなかった。
武田信玄の報告によれば、2千余人の兵が討ち取られたという(「諏訪文書」)。

この戦いに、北条氏康・氏政父子は参陣していなかった。
小田原城を出て三増峠に駆け付けたものの、北条勢は崩壊。
到着したところで戦いにはならなかった。
これについて『北条記』はこう語る。

 氏康父子、三里此方へ馳着玉ヘトモ、敵勝テ甲ノ緒ヲシメテ、不出合、
 労シテ功ナク、御馬ヲ入玉フ、三増峠合戦是也

北条氏康・氏政父子の軍勢が三増峠の戦いに間に合っていたならば、
流れは再び変わっていたかもしれない。
信玄もそれを危惧して早々に引き上げたのだろう。
氏康はこう語る。

 相・武境号三増山地迄、進陣候、敵手早取越間、当旗本一日之遅ゝ故、
 取遁候、誠無念之至候(「上杉家文書」)

三増峠に駆け付けるのが1日遅かったために敵を逃がし、
誠に無念である、と。
誰に述べたか?
越後の上杉謙信である。

後北条氏は武田信玄と干戈を交えるにあたって、
それまで敵対していた上杉謙信と手を結んだのだ。
苦渋の決断だったろうが、戦国最強の武田氏と対するため、
または一族の生き残りをかけて、
武神の化身と言われる謙信に頼らざるを得なかった。

ところが、謙信はなかなか後北条氏の要望に応えようとしない。
信玄が小田原城に向かっているさなかも、
駆け付ける気配を見せなかった。

例えば、上杉勢が北条勢とうまく連携をとり、
三増峠で武田勢と激突していたらどんな戦いになっただろう。
第四次川中島合戦のような激戦が繰り広げられたかもしれない。
一騎打ちに次ぐ逸話も生まれただろうか。

この点、北条氏康もチクリと言うのを忘れていない。
上杉氏の加勢がなかったゆえ、このようなことになって仕方がないと書き綴るのだった。

 御加勢一途無之故、如此之儀、無是非候(「上杉家文書」)



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