5月28日放送の大河ドラマ「どうする家康」は、
岡崎城における内紛が描かれていました。
すなわち、岡崎城陥落を目論見る武田勝頼が、
同城の城兵を取り込み、内部からの切り崩しを図ります。
徳川家から離反させるために密かに動いていたのは、武田家の忍びです。
力攻めにするのではなく、徳川家家臣の不満をうまく突いて取り込み、
内側を瓦解させて一気に叩く。
この方が犠牲も少なく、家康の士気を挫くのにも有効です。
忍びと言うと、黒づくめの恰好をした者たちが
かなり特殊な術を使うイメージが強いかもしれませんが、
情報収集や内部切り崩しを図り、味方に勝利をもたらすのも重要な仕事に数えられます。
「どうする家康」が描いた岡崎城攻めは、一種の忍び合戦と見てもよいでしょう。
同ドラマでは内部の切り崩しを図りましたが、
実際に城に攻め入って敵を攪乱させる戦法もあります。
城の乗っ取りも忍びの仕事の一つでした。
かつて、織田信長が浅井長政の小谷城を攻略すべく、
拠点の一つとした虎御前山城という城があります。
この城に忍び入って、放火に成功させた者がいます。
『總見記』や『朝倉記』などには、
朝倉家家臣の“竹内三助”及び“上村内蔵助”の忍び入ったことが記されています。
彼らは虎御前山城を落とし、
自身の名を天下に知らしめようと画策します。
というのも、城攻めの下知がなく、いたずらに月日を送ることに嫌気がさしたからでした。
両人は同城へ忍び入るにあたり、風雨の強い日を選びます。
自身の気配や足音を消すのに、風雨は恰好の追い風となります。
2人は城に向かって出発し、宵時に城の麓に建てられた小屋に到着。
塀の下を約2~5メートル掘って体を滑り込ませると、しばらく時を待ちました。
やがてやってきたのは、城中の夜回りをする兵です。
2人はそっと城内に入り、そのあとつけて本丸へ向かいます。
ところが、足音を聞きつけた城中の者に見付かってしまいます。
嫌疑がかかる竹内三助と上村内蔵助。
これに対し、三助が答えます
「今夜は風雨が激しくて騒がしいため、敵の夜討ちや忍び込みがないかと警戒して夜回りをしていました」
城中の者も夜討ちや忍びを警戒していたのでしょう。
それ以上2人を尋問することはありませんでした。
ここで両人は実行に出ます。
城中に火を放ち、無事に生還を果たすのです。
両人ノ者サノミ永居無益ナリト思テ、風面ナル小屋ニ火ヲ懸レハ、城中ノ者、スハヤ夜打入タリトテ、追手(大手)・搦手一・二万人サハキ立テ、敵味方鬨ヲ合テ(喚)呼フ、其声地勢ヲ響シ振動ス(『朝倉記』)
竹内三助と上村内蔵助が、忍びを専業としていたわけではないでしょう。
しかし、敵城に潜入して放火するという行動はまさに忍びの仕事の一環です。
誰もが実行できるわけではなく、
彼らにその心得と技能があったように思われます。
とはいえ、二次史料であるため、この逸話を鵜呑みにするには注意が必要です。
“忍び”と呼べるほどではないにしても、
風雨の夜に敵城へ忍び込んで攪乱させる戦術が記され、
また敵方もそれを警戒していた点は注視されます。
成功の有無はともかく、往時においてそのような戦術が一般的に採られていたとすれば、
恐るべき敵は塀の外ではなく、内側だったのかもしれません。
ちなみに、敵勢を混乱させた戦功により恩賞がもらえると期待した両人でしたが、
褒美はなかったそうです。
また虎御前山城の混乱に乗じて攻め込めば、攻略も射程に入っていたにもかかわらず、
朝倉・浅井両勢とも動くこともありませんでした。
「どうする家康」では、岡崎城の築山殿と松平信康に不穏な空気が漂い始めています。
歴史を知っている我々としては、
家康の決断がどのように描かれるのかが注目されると同時に、
その悲劇がもっと先であってほしい気がします。
岡崎城における内紛が描かれていました。
すなわち、岡崎城陥落を目論見る武田勝頼が、
同城の城兵を取り込み、内部からの切り崩しを図ります。
徳川家から離反させるために密かに動いていたのは、武田家の忍びです。
力攻めにするのではなく、徳川家家臣の不満をうまく突いて取り込み、
内側を瓦解させて一気に叩く。
この方が犠牲も少なく、家康の士気を挫くのにも有効です。
忍びと言うと、黒づくめの恰好をした者たちが
かなり特殊な術を使うイメージが強いかもしれませんが、
情報収集や内部切り崩しを図り、味方に勝利をもたらすのも重要な仕事に数えられます。
「どうする家康」が描いた岡崎城攻めは、一種の忍び合戦と見てもよいでしょう。
同ドラマでは内部の切り崩しを図りましたが、
実際に城に攻め入って敵を攪乱させる戦法もあります。
城の乗っ取りも忍びの仕事の一つでした。
かつて、織田信長が浅井長政の小谷城を攻略すべく、
拠点の一つとした虎御前山城という城があります。
この城に忍び入って、放火に成功させた者がいます。
『總見記』や『朝倉記』などには、
朝倉家家臣の“竹内三助”及び“上村内蔵助”の忍び入ったことが記されています。
彼らは虎御前山城を落とし、
自身の名を天下に知らしめようと画策します。
というのも、城攻めの下知がなく、いたずらに月日を送ることに嫌気がさしたからでした。
両人は同城へ忍び入るにあたり、風雨の強い日を選びます。
自身の気配や足音を消すのに、風雨は恰好の追い風となります。
2人は城に向かって出発し、宵時に城の麓に建てられた小屋に到着。
塀の下を約2~5メートル掘って体を滑り込ませると、しばらく時を待ちました。
やがてやってきたのは、城中の夜回りをする兵です。
2人はそっと城内に入り、そのあとつけて本丸へ向かいます。
ところが、足音を聞きつけた城中の者に見付かってしまいます。
嫌疑がかかる竹内三助と上村内蔵助。
これに対し、三助が答えます
「今夜は風雨が激しくて騒がしいため、敵の夜討ちや忍び込みがないかと警戒して夜回りをしていました」
城中の者も夜討ちや忍びを警戒していたのでしょう。
それ以上2人を尋問することはありませんでした。
ここで両人は実行に出ます。
城中に火を放ち、無事に生還を果たすのです。
両人ノ者サノミ永居無益ナリト思テ、風面ナル小屋ニ火ヲ懸レハ、城中ノ者、スハヤ夜打入タリトテ、追手(大手)・搦手一・二万人サハキ立テ、敵味方鬨ヲ合テ(喚)呼フ、其声地勢ヲ響シ振動ス(『朝倉記』)
竹内三助と上村内蔵助が、忍びを専業としていたわけではないでしょう。
しかし、敵城に潜入して放火するという行動はまさに忍びの仕事の一環です。
誰もが実行できるわけではなく、
彼らにその心得と技能があったように思われます。
とはいえ、二次史料であるため、この逸話を鵜呑みにするには注意が必要です。
“忍び”と呼べるほどではないにしても、
風雨の夜に敵城へ忍び込んで攪乱させる戦術が記され、
また敵方もそれを警戒していた点は注視されます。
成功の有無はともかく、往時においてそのような戦術が一般的に採られていたとすれば、
恐るべき敵は塀の外ではなく、内側だったのかもしれません。
ちなみに、敵勢を混乱させた戦功により恩賞がもらえると期待した両人でしたが、
褒美はなかったそうです。
また虎御前山城の混乱に乗じて攻め込めば、攻略も射程に入っていたにもかかわらず、
朝倉・浅井両勢とも動くこともありませんでした。
「どうする家康」では、岡崎城の築山殿と松平信康に不穏な空気が漂い始めています。
歴史を知っている我々としては、
家康の決断がどのように描かれるのかが注目されると同時に、
その悲劇がもっと先であってほしい気がします。
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