武田信玄が駿河の今川領へ進攻したのは、永禄11年(1568)のことだった。
武田氏と今川氏は同盟国だったが、
この進攻によって同盟は決裂したことによる。
併せて同盟国だった北条氏も武田氏と縁を切り、
これまで敵対していた上杉謙信と手を組むという離れ技へ動いていく。
武田信玄による駿河進攻の理由は、
今川氏真が密かに謙信と通じているというものだった。
永禄3年(1560)、桶狭間で織田信長により父義元を討ち取られたあとの氏真はパッとしない。
「倍返し」とは言わずとも、信長に一矢報いることができず、
武田信玄に本拠地を追われ、かつて今川家の人質だった徳川家康からも攻撃を受けるからだろう。
のちに、信長の前で蹴鞠を披露することもよく知られている。
武田信玄の進攻を受けた氏真は、何の抵抗もせず敗走したのかといえばそうではない。
薩埵山(静岡県静岡市)に軍勢を送り、武田勢を迎え討とうとした。
自らも出陣し、清見寺に着陣する。
そして、薩埵山において武田勢と一戦を交えるのである。
しかし、武田氏の武は天下に轟いていた。
信玄が相手では士気が低く、戦うまでもなかったのかもしれない。
しかも、今川家の総大将は文化的側面の強い氏真。
海道一の弓取りと言われた今川義元と比べると、どうしても見劣りしてしまう。
比べるべきではないにしても、父の威光が強ければ強いほど、
氏真にとっては不利な立場にならざるを得なかったのだろう。
今川勢の中には士気を上げる者がいなかったわけではない。
とはいえ、諸将の多くは厭戦モードだったらしい。
今川勢は庵原安房守を大将として、薩埵山に兵を布陣するにはした。
しかし、いよいよ武田勢を迎え討とうとしたところ、
今川家の一門の者たちがこぞって信玄に内通したという。
同十二日午刻、矢合有へしと合いと相定けるに、氏真の一門瀬名殿を初め、両家老、朝比奈兵衛尉、三浦與市、葛山備中守、武田上野介を先として、皆信玄へ内通、一人も不残引退、駿河府中へ引返す間、庵原殿も力なく本陣へ引行れ奉り、駿府へ引入らるる
(「松平記」)
一戦交えるまでもなく、内側から崩れたのである。
氏真にとって、予想できないことではなかったが、無念と口惜しさはあったに違いない。
義元が生きていれば別の結果になっていたのではなかったか。
そもそも、義元ならば駿河進攻を許さなかったかもしれない。
氏真は今川館に引き返さざるを得なかった。
起死回生の術はなく、現実を受け入れるしかなかった。
かくして、武田勢の進攻を食い止められず、氏真は懸川城への避難を余儀なくされるのだった。
薩埵山で血が流れなかったかと言えばそうではない。
今川勢の一人の首を討ち取ったとして、信玄は赤見源七郎に対し感状を出している。
今十二日、駿州ニ押入候之刻、於薩埵山、首壱ツ討捕條、神妙之至候(後略)
組織というのは難しい。
一つの生き物である。
氏真が強力な吸引力を持ち、父亡きあとも組織を牽引し、
武田勢の進攻を受けても家臣たちが一致団結していたならば、
現在残る歴史とは別のものになっていたという想像を禁じ得ない。
今川氏真は愚将だったという評価が一部にはある。
そのようなイメージを持つ人も少なくないだろう。
果たして氏真がそうだったかと言えば、そう単純なものではないと思う。
パレードの法則というものがある。
働きアリの内、8割の食糧を2割のアリが運んでくるという。
軍事組織の場合、2割が猛烈に戦い、6割はごく一般的に働き、
残り2割は戦うふりをするか、一目散に逃げるタイプということになる。
薩埵山合戦における今川家では、
蓋を開けてみれば1:9の割合で、圧倒的多数が戦う気のない者だったということだろうか。
それは氏真が愚将だったからではなく、
さまざまな要因が絡んでいたに違いない。
組織の頂点に立つ身であるゆえ、氏真が責任を負うのは避けられない。
ただ、一面的な評価で人格そのものを規定してしまうのは、いささか酷かもしれない。
武田氏と今川氏は同盟国だったが、
この進攻によって同盟は決裂したことによる。
併せて同盟国だった北条氏も武田氏と縁を切り、
これまで敵対していた上杉謙信と手を組むという離れ技へ動いていく。
武田信玄による駿河進攻の理由は、
今川氏真が密かに謙信と通じているというものだった。
永禄3年(1560)、桶狭間で織田信長により父義元を討ち取られたあとの氏真はパッとしない。
「倍返し」とは言わずとも、信長に一矢報いることができず、
武田信玄に本拠地を追われ、かつて今川家の人質だった徳川家康からも攻撃を受けるからだろう。
のちに、信長の前で蹴鞠を披露することもよく知られている。
武田信玄の進攻を受けた氏真は、何の抵抗もせず敗走したのかといえばそうではない。
薩埵山(静岡県静岡市)に軍勢を送り、武田勢を迎え討とうとした。
自らも出陣し、清見寺に着陣する。
そして、薩埵山において武田勢と一戦を交えるのである。
しかし、武田氏の武は天下に轟いていた。
信玄が相手では士気が低く、戦うまでもなかったのかもしれない。
しかも、今川家の総大将は文化的側面の強い氏真。
海道一の弓取りと言われた今川義元と比べると、どうしても見劣りしてしまう。
比べるべきではないにしても、父の威光が強ければ強いほど、
氏真にとっては不利な立場にならざるを得なかったのだろう。
今川勢の中には士気を上げる者がいなかったわけではない。
とはいえ、諸将の多くは厭戦モードだったらしい。
今川勢は庵原安房守を大将として、薩埵山に兵を布陣するにはした。
しかし、いよいよ武田勢を迎え討とうとしたところ、
今川家の一門の者たちがこぞって信玄に内通したという。
同十二日午刻、矢合有へしと合いと相定けるに、氏真の一門瀬名殿を初め、両家老、朝比奈兵衛尉、三浦與市、葛山備中守、武田上野介を先として、皆信玄へ内通、一人も不残引退、駿河府中へ引返す間、庵原殿も力なく本陣へ引行れ奉り、駿府へ引入らるる
(「松平記」)
一戦交えるまでもなく、内側から崩れたのである。
氏真にとって、予想できないことではなかったが、無念と口惜しさはあったに違いない。
義元が生きていれば別の結果になっていたのではなかったか。
そもそも、義元ならば駿河進攻を許さなかったかもしれない。
氏真は今川館に引き返さざるを得なかった。
起死回生の術はなく、現実を受け入れるしかなかった。
かくして、武田勢の進攻を食い止められず、氏真は懸川城への避難を余儀なくされるのだった。
薩埵山で血が流れなかったかと言えばそうではない。
今川勢の一人の首を討ち取ったとして、信玄は赤見源七郎に対し感状を出している。
今十二日、駿州ニ押入候之刻、於薩埵山、首壱ツ討捕條、神妙之至候(後略)
組織というのは難しい。
一つの生き物である。
氏真が強力な吸引力を持ち、父亡きあとも組織を牽引し、
武田勢の進攻を受けても家臣たちが一致団結していたならば、
現在残る歴史とは別のものになっていたという想像を禁じ得ない。
今川氏真は愚将だったという評価が一部にはある。
そのようなイメージを持つ人も少なくないだろう。
果たして氏真がそうだったかと言えば、そう単純なものではないと思う。
パレードの法則というものがある。
働きアリの内、8割の食糧を2割のアリが運んでくるという。
軍事組織の場合、2割が猛烈に戦い、6割はごく一般的に働き、
残り2割は戦うふりをするか、一目散に逃げるタイプということになる。
薩埵山合戦における今川家では、
蓋を開けてみれば1:9の割合で、圧倒的多数が戦う気のない者だったということだろうか。
それは氏真が愚将だったからではなく、
さまざまな要因が絡んでいたに違いない。
組織の頂点に立つ身であるゆえ、氏真が責任を負うのは避けられない。
ただ、一面的な評価で人格そのものを規定してしまうのは、いささか酷かもしれない。
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