クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

岩付城主“太田氏資”の死は予期せぬものだったか? ―三船山合戦―

2023年05月08日 | 戦国時代の部屋
千葉県の海へ行く途中、君津市を通る。
三舟山は君津市と富津市をまたがった山だ。
父を追放して岩付城主となった太田氏資が戦死した場所でもある。
戦国乱世とはいえ、江戸湾向こうの上総国で討死することなど想像したことがあっただろうか。

三船山の合戦は永禄10年(1567)に里見氏と後北条氏が衝突した戦いである。
佐貫城(千葉県富津市)攻めに向かった北条氏政に太田氏資も参陣する。
氏資は上杉謙信に従属する父資正を同7年に追放し、
北条方の国衆として岩付城主となったばかりだった。

対する里見義弘は、三船山の着陣した北条勢を黙って見過ごすわけにはいかない。
三船山に向けて出陣した。
数年前、第二次国府台合戦で後北条氏に大敗を喫したことは義弘の記憶に苦々しく残っていた。

その合戦には太田資正の姿もあった。
上杉方に属す資正は、里見氏とともに後北条氏に対抗し、敗走を余儀なくされたのである。
氏資の父追放の理由は定かではないが、
第二次国府台合戦の敗北も少なからず影響していただろう。
上杉方として旗幟を鮮明にしている資正に危機感を覚えたと思われる。

追放後は後北条氏に従属した。
多くの関東の国衆たちが上杉氏から離反する時流の中、氏資もその一人だった。
そして永禄十年、氏資は北条勢とともに里見氏の襲撃を受けるのである。

第二次国府台合戦のように、北条勢は里見氏の軍勢を攻め散らす……。
過去の戦歴から、楽観視する者もいたかもしれない。
運は我にあり。
佐貫城をたやすく落とし、里見氏を追い詰めていく。
そう考える者がいてもおかしくなかったが、時の運は両者の間で拮抗していた。

里見勢の士気は上がっていた。
先の合戦の雪辱を晴らす気負いもあるが、
三船山に砦を築かれ、佐貫城を落とされる危機感が兵たちを鼓舞していたのだろう。
北条の陣に攻めかかり、打ち破るのである。

北条勢は瓦解し、敗走する。
その混乱の中に太田氏資の姿があった。
氏資は殿軍を買って出たと言われる。
金ケ崎の撤退における羽柴秀吉と徳川家康のような展開があればドラマチックだったが、
現実はいつだってそううまくは運ばない。
敗走の混乱の中、太田氏資は命を落とすのである。
果敢に戦いに挑んでの討死と伝わる。

岩付城主として、意気軒高としていた最中での討死だったのではないだろうか。
智将と謳われた父を超えようとする意気込みと焦燥もあったかもしれない。
己の正義を打ち立てるべく、誰もが認める武功を上げていく。
それはもしかすると、それは父を追放した後ろめたさの裏返しでもあっただろうか。

信憑性は薄いが、『関八州古戦録』には、
三船山に引き連れた軍勢が小勢だったのを北条勢に笑われたため、
氏資は奮起して戦ったと伝えている。

僅(か)に召俱(す)所の(手の)者五十三人を率て、即時に打立、八月廿三日上総の浦辺へ渡海し、三船の城外に於て房源の敵と打戦ひ一足も不退花麗に奮撃して源五郎を初とし垣(恒)岡越後守以下五十二人の良等枕を双て打死す。

氏資が最後に目にしたのは何だっただろう。
その胸中には何がよぎっただろうか。
武蔵国から海を隔てた上総国で、太田氏資は露と消えるのである。

ちなみに、先の引用文に見える「垣(恒)岡越後守」は実子がなく、断絶の危機を迎えた。
ところが、北条氏政は越後守の討死について「今度上総行之砌、於殿太田源五郎越度刻見届、其方兄恒岡越後守討死、誠忠節之至不浅候」と、その奮戦を讃えた。
そして、弟である平林寺住持の泰翁宗安へ、還俗して兄の名跡を継ぐよう伝えている。

 然ニ彼実子無之候者、其方雖沙門之儀候、名字可断絶條、任下知、越後守一跡可有相続候
 (「平林寺文書」)

太田氏資亡きあとの岩付城は、北条氏政の子である氏房が継いだ。
岩付領は実質的に後北条氏の支配下に置かれることになる。
のちに岩付城代として北条氏繁が入城し、関宿城と羽生城攻略に向けて動き、
後北条氏の版図拡大の橋頭堡の一つとして機能するのである。
そのような結末を氏資は一度でも想像したことはあっただろうか。

千葉の海は雄大で美しい。
太田氏資の目に、死地となる上総国はどのように映っただろうか。
歳月の流れは記憶とともに記録を消し去り、
約500年前に生きた人々の足跡も波がさらっていくのは自然の摂理だろう。

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