クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

江戸時代初期の羽生領は誰が治めていた? ―子ども学芸員(58)―

2012年10月17日 | 子どもの部屋
天正18年(1590)の徳川家康の関東入府以降、
羽生城は大久保忠隣に宛われた。
『寛政重修諸家譜』には羽生領2万石とあるが、
『武徳編年集成』には1万石とあり、実際には後者の数字と捉えていい。

大久保忠隣は羽生城主になったとはいえ、
普段は江戸に詰め、一度も羽生領には足を運ばなかった。
忠隣の父忠世が亡くなったのちはその遺領を継ぎ、小田原城主も兼ねていた。

羽生領経営を担ったのは、木戸忠朝の遺臣“鷺坂軍蔵”である。
軍蔵は出家して“不得道可”(ふとくどうか)と名乗った。
道可は羽生城代として羽生領を治めることとなった。

亡き主君を追福するため、源長寺を再興。
そのため、同寺には不得道可とその妻の肖像画が現存している。

『石川正西聞見集』によると、道可は年貢の取り立てが厳しかったようである。
領地を見回り、田畑の善し悪しをよく見、
また坪計りにして年貢率を決めていた。

不得道可が亡くなったのは、文禄4年(1595)2月18日だった。
道可亡きあと、別の者が城代として羽生領経営に従事することになる。
羽生領経営を示す古文書の中には、
桑原九兵衛、佐伯図書助、乗松内記、天野与大夫、徳森伝次の名が見える。

そんな中、やや異端児的な存在の男がいた。
その男の名は“大久保彦左衛門忠教”(おおくぼひこざえもんただたか)。
のちに『三河物語』を著し、天下の御意見番として名高い人物である。

江戸時代初期、大久保彦左衛門は羽生領にいた。
城主でも城代でもない。
ただ、羽生領の内、川俣・発戸・常木の2千石を領していた。
常木の雷電神社にかつて「大久保彦左衛門の二俣の杖」があったのはこのためである。

なお、羽生城家臣で羽生領に残った酒井家と、烏帽子親子の関係を結んだ。
由緒書によれば、酒井忠治は徳森伝治の烏帽子子となったのち、
大久保彦左衛門から「彦」の字をもらい「彦兵衛」と名乗ったとある。
彦左衛門の羽生領在住を伝える数少ない資料の一つだ。

大久保忠隣や彦左衛門は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のときに、
上田城攻めに参陣している。
このとき、本多正信との関係をこじらせていることが、
のちの改易の伏線となったと言われている。
羽生領の領民もこの上田城攻めにかり出されたと思われるが、
それを伝える資料はいまのところ発見されていない。

慶長19年(1614)、大久保忠隣は突然改易になってしまう。
徳川家に忠義を尽くしてきた大久保家がなぜ改易の憂き目を見たのか、
現在でもはっきりした理由はわかっていない。
本多正信の陰謀との噂もまことしやかに囁かれている。

忠隣の改易により、羽生城は廃城となる。
戦国時代から羽生領の拠点として存在した城は、
城主の改易をもって幕を閉じたのだった。
羽生領は幕府領になったのち、複雑な支配体制へと移っていくのである。

<企画展Ⅰ「郷土羽生 ~資料から見る歴史と文化~」>
会場:羽生市立郷土資料館
期間:平成24年10月28日(日)まで
時間:午前9時~午後5時
費用:無料
http://www.lib.city.hanyu.saitama.jp/


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