クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生駅前に“みそ”を作る会社があった?

2012年01月16日 | 近現代の歴史部屋
昭和54年生まれのぼくでも、羽生駅西口は変わったと思う。
変わったどころではない。
全然違うとさえ思う。

とはいえ、西口の記憶はぼやけている。
ロータリーに彫像があって、その周囲に大量に停まっていた自転車。
ベンチ代りの小さな小屋もあって、
その暗がりにいるカップルに目をそらしたこともある。

かつて、羽生駅西口からほんの少し歩いたところに、
“羽生味噌醸造会社”があった。
ご当地産の麦と満州産の大豆で味噌を速成する計画で設立されたという。
資本金は十万円。
設立年は大正10年である。
味噌のほか酒類、醤油を作っていた。

いまは砂利の駐車場になっているところで味噌を作っていたわけだ。
「味噌を速成する計画」と、早く作ることを売りにしているように、
往古はどこの家でも味噌を作っていた。
味噌を買うようになったのは、昭和30年以降のことである。

老婆から聞いたことがある。
幼い頃は子守りをしながら味噌を作っていた、と。
ぐずる赤ん坊をあやしながら、
一人鍋で大豆を煮る作業は涙が出そうになったそうだ。

味噌の作り方は、煮た鍋を麦麹と混ぜ合わせ、
塩を加えて樽で寝かせるというもの。
近世の村々ではみな自宅で作っていた。
「農業を営む者は米と味噌は買うものではない」と言われた。

味噌は調味料として使っているが、かつては舐める副食物だった。
また、動物性たんぱく質の乏しい地域では貴重なたんぱく源であり、
生活に欠かせないものだった。
そんな身近であり、大切なものであったせいか、味噌にまつわる俗信も多い。

味噌が腐ると家主が死ぬ、
味噌の味が変わると不幸が起こる、などと、
身も蓋もないことが昔は信じられていた。
ちなみに、葬式のときに味噌を死者の膳に供えたり、
野辺送りの帰りに清めとして味噌を用いるところもあった。

寒いところは味噌が塩辛く、
暖かいところは甘い傾向があるという。
前述のように、自宅での味噌作りは昭和30年以降に急速にやめていき、
お金を払って買うようになった。
戦後の生活スタイルの変化によるものだろう。

羽生味噌醸造会社は、昭和40年代後半頃に会社を閉めたという。
現在は駐車場で、往古の面影はない。
ただ、その看板に会社名が書かれているのだが、
それを見るのはなぜか嬉しい。

※最初の写真は、現在の羽生駅西口(埼玉県羽生市)


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