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龍神の池までは一本の獣道が続いている。
落ち葉が積もり、僕にはほとんど見分けがつかないが、乙次郎さんの足に迷いはなかった。そのあとを僕はただ黙ってついていく。
お囃子の音も背後でだんだん小さくなっていった。
樹木の枝の間から月の光りが射し、辺りを薄く照らしている。
日中に雨が降ったせいか、湿った匂いが森の中に満ちていた。
辺りは僕たち以外に何の気配もない。
うしろを振り向いても、酉の市の明かりは木々に遮られて見えなかった。
乙次郎さんの足取りはいつもより速かった。
それは、数日前に近所の畑から水が涌き出たという事件があったせいかもしれない。
水は地面の数ヶ所から涌き、小さな溜まりを作ったという。
夏に降った大雨の影響だとか、
近くを流れる川と関係しているなどと色々な要因が挙がっていたが、
詳しいことはわからなかった。
龍神の池に行くには、途中の2つに割れた枯木を通らなければならない。
それはかつて森の中で一番大きな木だったのだが、
何年か前に落雷にあって枯れてしまったそうだ。
以来、そのままの姿で立ち続けているという。
乙次郎さんはそれを「二俣の木」と呼んで目印にしていた。
しばらく歩くと、僕たちはその二俣の木に辿り着いた。
闇の中でも真上から2つに割れているのがわかる。
根元には小さな石碑が横たわり、かつては神木として祀られていたことが窺える。
僕たちは無言のまま木の横を通り過ぎた。
ここから龍神の池までは近い。
お囃子の音はだいぶ遠くなり、ときどき頭上で何かが羽ばたく音がしたが、
枝に覆われて何も見えなかった。
さらに奥へ進むと、やがて森が拓けた。
乙次郎さんはそこで立ち止まる。
「やはり水は現れておらんか」
辿り着いた龍神の池の前で、乙次郎さんは呟くように言った。
僕はその横に立つ。拓けた森の切れ目から緩やかな窪みが広がり、
枝の隙間から月の光りが落ちている。
雨の湿った匂いはするが、水はどこにも見当たらなかった。
僕はため息をつくのと同時に、体の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
乙次郎さんはゆっくり龍神の池に近付く。
白い息の塊が浮かび、肩は少し下がっていた。
僕は立ち止まったまま乙次郎さんの背中を見つめた。
「もし君の兄さんが水の満ちた龍神の池を見たんなら、最後に目にしたかったの」
乙次郎さんの声は暗闇の中に溶けて消えていく。
「また来ればいいじゃん」
僕はポケットに手を突っ込んで答える。
振り向いた乙次郎さんの顔には笑みが浮かんでいたが、ひどく弱々しかった。
「ここに来ることはもうなかんべ」
来月の中旬、乙次郎さんは老人ホームに入ることになっている。
手続きは済ませていて、あとはその日が来るのを待つだけだという。
それを初めて聞いたのはつい最近のことだ。
天神様の境内で、乙次郎さんは思い出したように話したのだ。
乙次郎さんが老人ホームに入ることは、僕には何の関係もないはずだった。
兄の日記に頻繁に登場する老人で、
日ごと天神様にいる少し変わった人にすぎない。
兄が死ぬ数ヶ月前になぜ乙次郎さんと関わっていたのか、
その好奇心だけが僕を天神様に向かわせていただけだ。
しかし胸の内でざわめく感情は、なかなかおさまらなかった。
(「天神の森(7)」に続く)
龍神の池までは一本の獣道が続いている。
落ち葉が積もり、僕にはほとんど見分けがつかないが、乙次郎さんの足に迷いはなかった。そのあとを僕はただ黙ってついていく。
お囃子の音も背後でだんだん小さくなっていった。
樹木の枝の間から月の光りが射し、辺りを薄く照らしている。
日中に雨が降ったせいか、湿った匂いが森の中に満ちていた。
辺りは僕たち以外に何の気配もない。
うしろを振り向いても、酉の市の明かりは木々に遮られて見えなかった。
乙次郎さんの足取りはいつもより速かった。
それは、数日前に近所の畑から水が涌き出たという事件があったせいかもしれない。
水は地面の数ヶ所から涌き、小さな溜まりを作ったという。
夏に降った大雨の影響だとか、
近くを流れる川と関係しているなどと色々な要因が挙がっていたが、
詳しいことはわからなかった。
龍神の池に行くには、途中の2つに割れた枯木を通らなければならない。
それはかつて森の中で一番大きな木だったのだが、
何年か前に落雷にあって枯れてしまったそうだ。
以来、そのままの姿で立ち続けているという。
乙次郎さんはそれを「二俣の木」と呼んで目印にしていた。
しばらく歩くと、僕たちはその二俣の木に辿り着いた。
闇の中でも真上から2つに割れているのがわかる。
根元には小さな石碑が横たわり、かつては神木として祀られていたことが窺える。
僕たちは無言のまま木の横を通り過ぎた。
ここから龍神の池までは近い。
お囃子の音はだいぶ遠くなり、ときどき頭上で何かが羽ばたく音がしたが、
枝に覆われて何も見えなかった。
さらに奥へ進むと、やがて森が拓けた。
乙次郎さんはそこで立ち止まる。
「やはり水は現れておらんか」
辿り着いた龍神の池の前で、乙次郎さんは呟くように言った。
僕はその横に立つ。拓けた森の切れ目から緩やかな窪みが広がり、
枝の隙間から月の光りが落ちている。
雨の湿った匂いはするが、水はどこにも見当たらなかった。
僕はため息をつくのと同時に、体の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
乙次郎さんはゆっくり龍神の池に近付く。
白い息の塊が浮かび、肩は少し下がっていた。
僕は立ち止まったまま乙次郎さんの背中を見つめた。
「もし君の兄さんが水の満ちた龍神の池を見たんなら、最後に目にしたかったの」
乙次郎さんの声は暗闇の中に溶けて消えていく。
「また来ればいいじゃん」
僕はポケットに手を突っ込んで答える。
振り向いた乙次郎さんの顔には笑みが浮かんでいたが、ひどく弱々しかった。
「ここに来ることはもうなかんべ」
来月の中旬、乙次郎さんは老人ホームに入ることになっている。
手続きは済ませていて、あとはその日が来るのを待つだけだという。
それを初めて聞いたのはつい最近のことだ。
天神様の境内で、乙次郎さんは思い出したように話したのだ。
乙次郎さんが老人ホームに入ることは、僕には何の関係もないはずだった。
兄の日記に頻繁に登場する老人で、
日ごと天神様にいる少し変わった人にすぎない。
兄が死ぬ数ヶ月前になぜ乙次郎さんと関わっていたのか、
その好奇心だけが僕を天神様に向かわせていただけだ。
しかし胸の内でざわめく感情は、なかなかおさまらなかった。
(「天神の森(7)」に続く)