広島から東京に出て一人暮らしをしていたNさんの部屋を訪ねたとき、
床に積まれていた本の中にあったのは、
吉田秋生氏のマンガ『夢見る頃をすぎても』と『河よりも長くゆるやかに』でした。
前者は1994年、後者は1995年に小学館文庫として再発行された少女マンガです。
初出はいずれも昭和50年代で、
僕らから見れば、およそひと回り上の世代の青春が描かれています。
1997年、18歳だった僕が何となくその2冊を手に取ってパラパラ読んでいると、
「それは面白いけんのう」と、Nさんが広島弁で勧めたのを覚えています。
確かNさんとは8つくらい年が離れていて、立場としては「同級生」でしたが、
その情報量や読んだ本の量、人生経験といったものが異なっていたことは明らかでした。
映画「攻殻機動隊」を初めて観たのもNさんの部屋です。
ナボコフ、サルトル、楠本マキといった本があるかと思えば、
クラブ好きを象徴するように、ターンテーブルが置かれている。
部屋の片隅に散らばった僕の知らないクスリの数々。
そんなNさんは小説も書いていて、
親から受けた拭い去れない心的外傷を持つ青年の物語を、
硬質かつ繊細な文章で描いていました。
かと思えば、数年後には編集プロダクションに属し、
僕を含むライターたちを集め、瞬く間に作り上げたクラブの紹介本。
西洋哲学書や海外文学を乱読し、
世界の憂いを一身に背負ったような表情でいつもタバコをふかしていたNさん。
僕はそんなNさんの独特の世界にときどき戸惑いを覚えつつも、
吸引力から抗えなかったのでしょう。
サルトル全集と一緒に積み重なっていた吉田秋生氏の少女マンガは、
僕がNさんを知る限りにおいて、明らかに異質でした。
その手の本と彼が全く結びつかなかったのです。
だから、『夢みる頃をすぎても』と『河よりも長くゆるやかに』を読むことは、
僕の知らないNさんの一面を垣間見るのと似ていた気がします。
いまだから思うのは、Nさんと高校や中学時代に出会っていたら、
おそらく付き合ってはいないということ。
18歳という世界が少し開けたタイミングだったからこそ、
僕はNさんの言動に新鮮さを覚え、そこに吸引力を感じたのかもしれません。
出会うタイミングというのはいつも絶妙です。
神さまが誰かが意図して引き合わせたのではないかと思うくらい、
そのとき、そのタイミングで眼前に現れるものです。
僕は信心深くないですが、
人と人をつなぐ“縁”というものは確実に存在すると思っています。
春になると、『夢みる頃をすぎても』と『河よりも長くゆるやかに』の2冊を手に取ります。
なぜ春なのか、その理由はもう覚えていません。
窓の外が春めいた明るさに彩られたとき、
ふと目の留まる2冊の背表紙。
90年代後半のあの時代と共に、想いを馳せるNさんの記憶。
出会いが誰かの意図したものであるならば、
別れもまたしかりかもしれません。
互いがそれぞれの役目を終え、何かしらの意味をもたらしたあと、
ごく自然に離れていく気がします。
漂着した場所から離れ、再び漂流するように。
誰かと一緒にいても何となく居場所のなさを感じた一人きりの夜。
立ち寄った本屋で目に留まった2冊の少女マンガ。
どうやら今年も春が来たようです。
床に積まれていた本の中にあったのは、
吉田秋生氏のマンガ『夢見る頃をすぎても』と『河よりも長くゆるやかに』でした。
前者は1994年、後者は1995年に小学館文庫として再発行された少女マンガです。
初出はいずれも昭和50年代で、
僕らから見れば、およそひと回り上の世代の青春が描かれています。
1997年、18歳だった僕が何となくその2冊を手に取ってパラパラ読んでいると、
「それは面白いけんのう」と、Nさんが広島弁で勧めたのを覚えています。
確かNさんとは8つくらい年が離れていて、立場としては「同級生」でしたが、
その情報量や読んだ本の量、人生経験といったものが異なっていたことは明らかでした。
映画「攻殻機動隊」を初めて観たのもNさんの部屋です。
ナボコフ、サルトル、楠本マキといった本があるかと思えば、
クラブ好きを象徴するように、ターンテーブルが置かれている。
部屋の片隅に散らばった僕の知らないクスリの数々。
そんなNさんは小説も書いていて、
親から受けた拭い去れない心的外傷を持つ青年の物語を、
硬質かつ繊細な文章で描いていました。
かと思えば、数年後には編集プロダクションに属し、
僕を含むライターたちを集め、瞬く間に作り上げたクラブの紹介本。
西洋哲学書や海外文学を乱読し、
世界の憂いを一身に背負ったような表情でいつもタバコをふかしていたNさん。
僕はそんなNさんの独特の世界にときどき戸惑いを覚えつつも、
吸引力から抗えなかったのでしょう。
サルトル全集と一緒に積み重なっていた吉田秋生氏の少女マンガは、
僕がNさんを知る限りにおいて、明らかに異質でした。
その手の本と彼が全く結びつかなかったのです。
だから、『夢みる頃をすぎても』と『河よりも長くゆるやかに』を読むことは、
僕の知らないNさんの一面を垣間見るのと似ていた気がします。
いまだから思うのは、Nさんと高校や中学時代に出会っていたら、
おそらく付き合ってはいないということ。
18歳という世界が少し開けたタイミングだったからこそ、
僕はNさんの言動に新鮮さを覚え、そこに吸引力を感じたのかもしれません。
出会うタイミングというのはいつも絶妙です。
神さまが誰かが意図して引き合わせたのではないかと思うくらい、
そのとき、そのタイミングで眼前に現れるものです。
僕は信心深くないですが、
人と人をつなぐ“縁”というものは確実に存在すると思っています。
春になると、『夢みる頃をすぎても』と『河よりも長くゆるやかに』の2冊を手に取ります。
なぜ春なのか、その理由はもう覚えていません。
窓の外が春めいた明るさに彩られたとき、
ふと目の留まる2冊の背表紙。
90年代後半のあの時代と共に、想いを馳せるNさんの記憶。
出会いが誰かの意図したものであるならば、
別れもまたしかりかもしれません。
互いがそれぞれの役目を終え、何かしらの意味をもたらしたあと、
ごく自然に離れていく気がします。
漂着した場所から離れ、再び漂流するように。
誰かと一緒にいても何となく居場所のなさを感じた一人きりの夜。
立ち寄った本屋で目に留まった2冊の少女マンガ。
どうやら今年も春が来たようです。
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