「君子は怒りを移さず」(論語)という。
これに反し、怒りを他へ移すのが「室に怒りて市に色す」。
自分の部屋で腹の立つことがあると、街中へ出て無関係の人に八っ当たりする。
■
春秋時代、楚は呉と戦うが敗色濃厚であった。
気をよくした呉王は、弟の蕨由(けつゆう)を派遣して楚軍を慰問させた。
これを嫌がらせとみた楚王は、蕨由を捕らえ殺そうと最後の訊問をした。
■
「お前は、ここへ来ることを占ったら吉と出たから来たのであろう」
「勿論です。私が無事に帰ったら我が軍は安心して備えを怠るでしょうし、
両国は平和を取り戻して吉です。
反対に、私が殺されたら呉軍は勝利の余勢をかって、一気に貴国へ
攻め入るでしょうから、これもまた吉、どちらへ転んでも吉なのです」
■
楚王は、この戦は利あらずとみて兵を引き上げることとし、蕨由を楚へ連行した。
だが、考えれば考えるほど、呉に負けるのが口惜しい。
そう思うと、軟禁している憎い呉の蕨由に腹が立つ。
ついに殺そうと思い立ち、側近たちに相談した。
■
「それは筋違いです。この度の戦いは楚から仕掛けたもの。
いわば非は我が方にあり負けるべくして負けたのです。呉の蕨由のせいでもありません。
諺にも『室に怒りて市に色す』と申します。
ここは、ひとつ彼を放して帰し、呉と和を講ずべきでしょう」
■
楚王は、これを聞き入れて蕨由を帰国させ、呉と仲直りしたのである。