よく聞く言葉ですが、はたして「面度見がよい」というのはどういうことなのか、西武台千葉高校の説明かを聞いていて考えさせられました。
当日は多岐にわたって様々な取り組みについての説明がありましたが、その中で私が一番印象に残ったのがこの「面倒見」というフレーズでした。
「面倒見がよい」とはつまりどういうことなのか。西武台千葉高校で説明された先生の言葉を借りれば、1つは「何もかも手取り足とり教える」という文字どおりの面倒見の良さ。そしてもうひとつは「自分が将来一人で出来るように自立を促すのをサポートする」という面倒見の良さです。
この言葉以外にもあるかもしれませんが、なるほどなぁと思いました。面倒見がよいというと、どちらかというと前者のことを指すかもしれませんが、これは依存心が高まってしまい「誰かがいないと出来ない、自分だけでは出来ない」という人になってしまうように思います。
後者のほうは、言い方を変えれば「なるべく自分で考えて、人に頼らなくても出来るようになる」ということができると思います。これは勉強で考えるならば、すでに勉強がある程度できる人はよいかもしれませんが「苦手でどこから手をつけたらよいかさえ分からない」という生徒さんには、酷かもしれません。
この2つの面倒見のどちらが大切かというよりも、やはりこの2つのバランスが大切なのではないか、そう思いました。実際に西武台千葉高校でも開校当初は前者の面倒見の良さが中心でしたが、現在では後者の面倒見の良さが中心になってきているとのことでした。
翻って、当塾には実に様々な成績層の生徒さんが在籍しています。前者の面倒見の良さを必要とする生徒さんもいれば、後者の面倒見の良さを必要とする生徒さんもいます。講師の力とは、生徒さんが今どちらの面倒見の良さを必要としているのかを見分ける力でもあると思います。成績下位の生徒さんに「自立するために、何でも自分でやってみろ」は酷ですし、成績上位の生徒さんに手取り足とり教えるのも、本人が望む以上に「教えすぎ」になってしまいまうように思います。
やはり生徒さんの「今」を正しくとらえ、どこのレベルの「面倒見」から始めるのかが大切だと思います。そして最終的には教育とは自立を促すことでもありますので、少しずつ面倒見の質や量を変化させていって、後者の面倒見に変えていく、そのようなプロセスを描いていけるかどうかが大切だと思います。
若いときの私は「なんでも教えることが教育だ、教え込むことこそ教育だ」と思っていました。もちろん今でもそういう対応が必要な生徒さんもいるのは事実です。しかし、たとえそこから始まったとしても、最終的には「先生、大丈夫!一人でもできるから」と言われるようにならなければならないと考えています。
だからこそ教える側は生徒の自立を喜ばなければならないと思います。また、生徒さんの成績が上がってきても「先生はもういらない」と言われないように、深く幅の広い知識をもち、いつまでたってもあの先生には教わることがあると言われ続けなければならないとも思います。
この仕事を含め、一生涯が勉強です。子供に飽きたと言わせない工夫をするためにも、自分自身を磨く努力を忘れないようにしたいと、改めて思いました。