専門が社会学ではなく、政治学ということもあってか、学生時代は差別の問題を特に研究対象とすることはなかった。しかしアメリカに留学をしていたのがちょうどO・J・シンプソン裁判の頃で、現在と比較しても人種関係が緊張した時期だったこともあり、人種差別の問題について本格的に考えるようになった。それでも大学でアメリカ社会論やアメリカ政治論の講義を行なうまでは、差別問題を学問的に論じる難しさについて、必ずしも十分な自覚をもっていなかったというのが正直なところだ。
関西の大学で教え始めて、学生から「私は実は在日韓国人で・・・」、「私は地区出身で・・」と打ち明けられることが何度かあった。そのように告白されても、言われる前と後で彼や彼女を見る目が特に変わる訳ではない。ただアメリカの人種差別をめぐる問題について、自分の語り口が、私よりも差別の問題について、より身近に感じていて、先鋭な意識をもっているかもしれない学生たちの前でどれほど説得的なのだろうかと自問するようになった。
4月に出た好井裕明氏の『差別原論』(平凡社新書)を手に取ったのも、差別問題の専門家が一般向けに「差別」の問題をどうまとめているのか、気になったからだ。一口に差別といっても人種差別、民族差別、差別、男女差別、同性愛者に対する差別、障害者差別、ホームレス差別、高齢者差別、容貌差別などは、それぞれ様相が異なっており、「差別原論」といったタイトルで総括して論じるのに相当無理があるに違いない。しかし好井氏は、「差別はしていけない」という規範論から始めるのではなく、差別は誰もが日常的にしてしまうものであり、差別-被差別、差別をする側-される側という硬直した二分法で捉えるべきではないと強調する。二分法で捉えて、いくら「差別をやめましょう」と「啓発」しても、結局は、差別するにしろ、されるにしろ、自分ではなく、「あの人たちの問題」だとして傍観者的な立場をとる人間を増やすだけだという。そうではなく、「差別を隠し、見えにくくする知」について自覚し、「差別してしまう可能性がある」自分と向き合えと呼びかけている。
「内なる権力」を自覚せよ、というロジックは、フーコーを持ち出すまでもなく、いかにも社会学者的な説明だが、差別と被差別の二分法の袋小路は、差別の問題を考えたり、論じる時に常に感じていたので、なるほどと思った。また以前、このブログでアメリカのバラエティ番組である、サタデー・ナイト・ライブのコメディを取り上げた時も書いたが、コメディで差別ネタを扱うことでむしろ差別の無意味さを笑い飛ばす、という著者の考え方にも共感できた。しかし「差別的な日常を『あたりまえ』のように生きている私という存在の核心にある『差別的なるもの』をつくりかえるにはどうしたらよいか」(187頁)という著者自身の問い -もって回った言い方をしているが-要するに自分の中の差別意識を克服するにはどうしたらいいか?という問いへの答えが、著者が、大学で教えるのも、論文を書くのも、学生と飲みに行くのも、家事をすることも、子供の面談に行くのも、日常の営みを全て「等価」に扱っていることだ、と書いていたのには拍子抜けであった。
著者は、差別問題と取り組むといった「構え」を捨てて、自然体で、内なる差別の問題にも取り組み、また差別されている人々の生きた言葉にも耳を傾け、対話的な知を形成していくことの重要性を説いている。著者が読者に求めているのはそうしたしなやかな取り組みである。ただ著者自身はおそらく生真面目な人なのだろうが、様々な「構え」や「自意識」から解放されていないように読める箇所が多かった。
例えば解放団体支部の女性たちとカラオケに行って、長く解放運動に関わっていた年配教員のカラオケがうけていたのに、自分の唄が「ウケ」なかったのは、自分が「差別問題研究や人権教育を少しでも進めるために何かしなければならない」と「構え」ていたのが反発されたせいだと勝手に納得してみたり、深夜に線路を歩いていて、警官に職務質問されたときに、東大の大学院の学生証を見つけた警官が急に態度を変えたのを、「これが警察官の権威主義だなと実感した」(152頁)と決め付けたり、著者自身の「構え」や「内なる権威主義」が透けてみえるエピソードが散りばめられている。
同じ著者は『「あたりまえ」を疑う社会学』(光文社新書)という、エスノメソドロジーのわかりやすい入門書を出しているが、その中で、「私は・・・これまで生きてきた人生経験から、できれば家庭内の性別分業を壊したいと思い、・・・掃除、洗濯はするし、夕飯の支度、後片付けをする。食事が運ばれてくるのを、あぐらをかいて待っていたことなどない。後片付けの後は、みんなにお茶を入れる。子供の運動会や遠足の弁当は必ず作る」(201頁)などとわざわざ書いている。家事をするのは至極、当然のことでありながら、著者自身が伝統的な性別役割から解放されきっておらず、、「やってやってる」的な意識をもっていることが図らずも露呈している。著者が望むような「自然体」ではなく、やはりどこか構えているのだ。そういう内なる「差別」意識を抱えている、人一倍自覚している著者だからこそ、差別の問題に専門的に取り組んでいるのかもしれないと考えさせられた。
政治学を研究している立場から言えば、差別の問題は、単に「当たり前」や「普通」という規範を疑えば解消できるものではなく、必ず多数派と少数派の権力争いの側面を含んでいると思う。封建時代や植民地主義の時代は、少数派である支配階級が、自分たちの価値観を多数派である被支配階級に一方的に押し付けることもあったが、多くの場合、「当たり前」だとされる社会規範は、その時代や社会、集団の多数派の価値観をおおむね反映しているものである。したがって多数派が変われば、「当たり前」の基準も変わっていく。だから少数派も多数派になろうとするか、あるいは自分たちの「価値観」を「当たり前」にしようと戦うのである。差別の問題を考える際に、そうした政治闘争としての側面を抜きにして論じることはできないだろう。
本書での定義によれば、「差別」とは、「人々が他者に対して、ある社会的カテゴリーをあてはめることで、他者の個別具体的な生それ自体を理解する回路を遮断し、他者を忌避・排除する具体的な行為の総体」であるという(60頁)。だから「カテゴリー」を疑い、具体的で生きた生活体験に耳を傾けよ、ということになり、参与観察などの質的調査を重視する社会学者としての立場と主張が一貫している。しかし同時に「カテゴリー」というのは常にネガティブなものではなく、自分が何者かというアイデンティティが、ある種、集合的なカテゴリーにおいて形成されている面があるのも事実である。
アフリカ系アメリカ人の問題を研究していると常に感じるが、一人のアメリカ人を、単にアメリカ人としてではなく、「黒人」と「カテゴリー」化して捉えるのとは明らかに「差別」であるが、当の本人が、自分は「アフリカ系」として差別されてきたが、白人に負けずにここまで頑張って来れたと「誇り」に思っている場合もあるかもしれない。アイデンティティの形成に「アフリカ系」であることが全く影響しないとは考えにくい。そこに「アイデンティティ」と「カテゴリー」と「差別」の間の厄介で入り組んだ関係がある。
人種、民族、皮膚の色、宗教、性別、出身地、家柄などで、少なくとも法的な差別をしてはいけないという規範は、今日の先進民主主義国においてはほぼ確立している。そうした民主主義国において、「差別」をなくしていくために、「差別」に社会経済的な意味をもたせないことと、差別を受ける側が、差別する側の論理を内在化させないことがまず大切ではないだろうか。
「差別」に社会経済的な意味をもたせないということについて付言すれば、アメリカで始まったアファーマティブ・アクションのような試みは、差別解消のための過渡的な施策としてはある程度、有効であるものの、結局、被差別集団としての過去を社会経済的な既得権にしてしまい、差別の解消ではなく、差別やカテゴリーの固定化、永続化につながりかねない逆効果があるだろう。
「差別する側の論理を内在化すること」について言えば、コンプレックスをもつことは、人の「弱点」を差別し、笑いものにしようとする人間を増長させる。「ぼくは・・・だけど、だから何?」と引き直れれば、笑った人間は笑ったことを恥ずかしく思うだろうし、そうした仲間の態度を目にすれば、「・・・」であることを引け目に思って隠している人は、「ああ、隠す必要はないんだな、恥ずかしく思う必要はないんだな」と思うかもしれない。
もちろんそんなことだけでは解決しきれない根の深い差別やそれに基づく暴力が、社会の様々な局面に蔓延しているのは事実だが、「差別」を意味のないものにする努力を、差別をしてきた側と、差別をされてきた側、さらに差別を黙認してきた人々がともに続けていかない限り、なくならないだろう。
そういう意味では、「対話」を強調し、二分論を否定する好井氏の差別論は共感するところも少なくなかった。著者は内なる差別意識ときちんと向き合わない自称「普通の人々」が、差別の温床となっていると考えているようだ。著者が問題とする無意識の差別も確かに重要ではあるが、より意識的で悪質な差別は、不満の捌け口であれ、経済的利害であれ、「効率」優先であれ、トラブル回避であれ、差別をする人にとって、何らかの「効用」があるから存在しているのであり、そうした「効用」がなくなった「差別」は消滅していくのではないかと私は考える。しかし、いかなる形であれ、何らかの差別が残り、差別したりされたりするのが「日常」であるという点では著者と同意見である。
「構えて」取り組んでもダメだし、「自然体」で臨もうと意識してもなかなか上手くいかない。つい批判的なコメントが多くなったが、数々の実践を経験してきた専門家にとっても「差別」を論じるのは容易ではないのだなと改めて実感させられた一冊であった。
関西の大学で教え始めて、学生から「私は実は在日韓国人で・・・」、「私は地区出身で・・」と打ち明けられることが何度かあった。そのように告白されても、言われる前と後で彼や彼女を見る目が特に変わる訳ではない。ただアメリカの人種差別をめぐる問題について、自分の語り口が、私よりも差別の問題について、より身近に感じていて、先鋭な意識をもっているかもしれない学生たちの前でどれほど説得的なのだろうかと自問するようになった。
4月に出た好井裕明氏の『差別原論』(平凡社新書)を手に取ったのも、差別問題の専門家が一般向けに「差別」の問題をどうまとめているのか、気になったからだ。一口に差別といっても人種差別、民族差別、差別、男女差別、同性愛者に対する差別、障害者差別、ホームレス差別、高齢者差別、容貌差別などは、それぞれ様相が異なっており、「差別原論」といったタイトルで総括して論じるのに相当無理があるに違いない。しかし好井氏は、「差別はしていけない」という規範論から始めるのではなく、差別は誰もが日常的にしてしまうものであり、差別-被差別、差別をする側-される側という硬直した二分法で捉えるべきではないと強調する。二分法で捉えて、いくら「差別をやめましょう」と「啓発」しても、結局は、差別するにしろ、されるにしろ、自分ではなく、「あの人たちの問題」だとして傍観者的な立場をとる人間を増やすだけだという。そうではなく、「差別を隠し、見えにくくする知」について自覚し、「差別してしまう可能性がある」自分と向き合えと呼びかけている。
「内なる権力」を自覚せよ、というロジックは、フーコーを持ち出すまでもなく、いかにも社会学者的な説明だが、差別と被差別の二分法の袋小路は、差別の問題を考えたり、論じる時に常に感じていたので、なるほどと思った。また以前、このブログでアメリカのバラエティ番組である、サタデー・ナイト・ライブのコメディを取り上げた時も書いたが、コメディで差別ネタを扱うことでむしろ差別の無意味さを笑い飛ばす、という著者の考え方にも共感できた。しかし「差別的な日常を『あたりまえ』のように生きている私という存在の核心にある『差別的なるもの』をつくりかえるにはどうしたらよいか」(187頁)という著者自身の問い -もって回った言い方をしているが-要するに自分の中の差別意識を克服するにはどうしたらいいか?という問いへの答えが、著者が、大学で教えるのも、論文を書くのも、学生と飲みに行くのも、家事をすることも、子供の面談に行くのも、日常の営みを全て「等価」に扱っていることだ、と書いていたのには拍子抜けであった。
著者は、差別問題と取り組むといった「構え」を捨てて、自然体で、内なる差別の問題にも取り組み、また差別されている人々の生きた言葉にも耳を傾け、対話的な知を形成していくことの重要性を説いている。著者が読者に求めているのはそうしたしなやかな取り組みである。ただ著者自身はおそらく生真面目な人なのだろうが、様々な「構え」や「自意識」から解放されていないように読める箇所が多かった。
例えば解放団体支部の女性たちとカラオケに行って、長く解放運動に関わっていた年配教員のカラオケがうけていたのに、自分の唄が「ウケ」なかったのは、自分が「差別問題研究や人権教育を少しでも進めるために何かしなければならない」と「構え」ていたのが反発されたせいだと勝手に納得してみたり、深夜に線路を歩いていて、警官に職務質問されたときに、東大の大学院の学生証を見つけた警官が急に態度を変えたのを、「これが警察官の権威主義だなと実感した」(152頁)と決め付けたり、著者自身の「構え」や「内なる権威主義」が透けてみえるエピソードが散りばめられている。
同じ著者は『「あたりまえ」を疑う社会学』(光文社新書)という、エスノメソドロジーのわかりやすい入門書を出しているが、その中で、「私は・・・これまで生きてきた人生経験から、できれば家庭内の性別分業を壊したいと思い、・・・掃除、洗濯はするし、夕飯の支度、後片付けをする。食事が運ばれてくるのを、あぐらをかいて待っていたことなどない。後片付けの後は、みんなにお茶を入れる。子供の運動会や遠足の弁当は必ず作る」(201頁)などとわざわざ書いている。家事をするのは至極、当然のことでありながら、著者自身が伝統的な性別役割から解放されきっておらず、、「やってやってる」的な意識をもっていることが図らずも露呈している。著者が望むような「自然体」ではなく、やはりどこか構えているのだ。そういう内なる「差別」意識を抱えている、人一倍自覚している著者だからこそ、差別の問題に専門的に取り組んでいるのかもしれないと考えさせられた。
政治学を研究している立場から言えば、差別の問題は、単に「当たり前」や「普通」という規範を疑えば解消できるものではなく、必ず多数派と少数派の権力争いの側面を含んでいると思う。封建時代や植民地主義の時代は、少数派である支配階級が、自分たちの価値観を多数派である被支配階級に一方的に押し付けることもあったが、多くの場合、「当たり前」だとされる社会規範は、その時代や社会、集団の多数派の価値観をおおむね反映しているものである。したがって多数派が変われば、「当たり前」の基準も変わっていく。だから少数派も多数派になろうとするか、あるいは自分たちの「価値観」を「当たり前」にしようと戦うのである。差別の問題を考える際に、そうした政治闘争としての側面を抜きにして論じることはできないだろう。
本書での定義によれば、「差別」とは、「人々が他者に対して、ある社会的カテゴリーをあてはめることで、他者の個別具体的な生それ自体を理解する回路を遮断し、他者を忌避・排除する具体的な行為の総体」であるという(60頁)。だから「カテゴリー」を疑い、具体的で生きた生活体験に耳を傾けよ、ということになり、参与観察などの質的調査を重視する社会学者としての立場と主張が一貫している。しかし同時に「カテゴリー」というのは常にネガティブなものではなく、自分が何者かというアイデンティティが、ある種、集合的なカテゴリーにおいて形成されている面があるのも事実である。
アフリカ系アメリカ人の問題を研究していると常に感じるが、一人のアメリカ人を、単にアメリカ人としてではなく、「黒人」と「カテゴリー」化して捉えるのとは明らかに「差別」であるが、当の本人が、自分は「アフリカ系」として差別されてきたが、白人に負けずにここまで頑張って来れたと「誇り」に思っている場合もあるかもしれない。アイデンティティの形成に「アフリカ系」であることが全く影響しないとは考えにくい。そこに「アイデンティティ」と「カテゴリー」と「差別」の間の厄介で入り組んだ関係がある。
人種、民族、皮膚の色、宗教、性別、出身地、家柄などで、少なくとも法的な差別をしてはいけないという規範は、今日の先進民主主義国においてはほぼ確立している。そうした民主主義国において、「差別」をなくしていくために、「差別」に社会経済的な意味をもたせないことと、差別を受ける側が、差別する側の論理を内在化させないことがまず大切ではないだろうか。
「差別」に社会経済的な意味をもたせないということについて付言すれば、アメリカで始まったアファーマティブ・アクションのような試みは、差別解消のための過渡的な施策としてはある程度、有効であるものの、結局、被差別集団としての過去を社会経済的な既得権にしてしまい、差別の解消ではなく、差別やカテゴリーの固定化、永続化につながりかねない逆効果があるだろう。
「差別する側の論理を内在化すること」について言えば、コンプレックスをもつことは、人の「弱点」を差別し、笑いものにしようとする人間を増長させる。「ぼくは・・・だけど、だから何?」と引き直れれば、笑った人間は笑ったことを恥ずかしく思うだろうし、そうした仲間の態度を目にすれば、「・・・」であることを引け目に思って隠している人は、「ああ、隠す必要はないんだな、恥ずかしく思う必要はないんだな」と思うかもしれない。
もちろんそんなことだけでは解決しきれない根の深い差別やそれに基づく暴力が、社会の様々な局面に蔓延しているのは事実だが、「差別」を意味のないものにする努力を、差別をしてきた側と、差別をされてきた側、さらに差別を黙認してきた人々がともに続けていかない限り、なくならないだろう。
そういう意味では、「対話」を強調し、二分論を否定する好井氏の差別論は共感するところも少なくなかった。著者は内なる差別意識ときちんと向き合わない自称「普通の人々」が、差別の温床となっていると考えているようだ。著者が問題とする無意識の差別も確かに重要ではあるが、より意識的で悪質な差別は、不満の捌け口であれ、経済的利害であれ、「効率」優先であれ、トラブル回避であれ、差別をする人にとって、何らかの「効用」があるから存在しているのであり、そうした「効用」がなくなった「差別」は消滅していくのではないかと私は考える。しかし、いかなる形であれ、何らかの差別が残り、差別したりされたりするのが「日常」であるという点では著者と同意見である。
「構えて」取り組んでもダメだし、「自然体」で臨もうと意識してもなかなか上手くいかない。つい批判的なコメントが多くなったが、数々の実践を経験してきた専門家にとっても「差別」を論じるのは容易ではないのだなと改めて実感させられた一冊であった。