紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

反時代的考察の難しさ

2006-01-03 23:17:16 | 社会
帰省した折に本棚を眺めていて、古い雑誌やムックに目が留まることがある。大学に入って国際政治学を勉強し始めた頃に買った『国際政治学入門』(法学セミナー増刊 1988年4月30日発行、日本評論社)もそんな一冊だが、冷戦終結直前の激動期に刊行された本だけに、載せられている論文、解説記事の内容も今から見ると感心するもの、疑問を感じるもの、様々である。木戸蓊氏の「国際政治と均衡感覚」(81-90頁)のように、

「キューバやニカラグアを研究しているわが国のラテン・アメリカ研究者は同地の革命運動がほぼ無条件に『反米親ソ』傾向をもつことから強い影響を受けているものが多く、他方、わが国のポーランド研究者は、『連帯』運動が強烈に『反ソ親米』的であることを反映しているものが多かった。国際政治を客観的、総合的に観察しようとする場合には、それでは困るのである」(89-90頁)

と時流に流されないバランス感覚の必要を強調する論考がある一方で、1987年11月の金賢姫による大韓航空機爆破事件の直後であるにもかかわらず、あるいは直後であるため、かえってなのかもしれないが、「金日成著作集」を必読書として勧めたり、「北は主体思想にもとづいた社会主義社会建設を主目標にして、自立的な経済の発展と分配の平等を目指してきた。必要なものから平等に満たしていくという哲学が貫徹されている。ピョンヤンのデパートを覗いても、たしかに生活必需品は潤沢である」(多賀秀敏「新しい地球の読み方」、253頁)といった今から見るとナイーブすぎる記述もある。このような論者による幅の大きさも、多様な見方を提供する、大学生向けの「国際政治学」入門としては的確だったのかもしれない、というのは皮肉すぎるだろうか?

情報が限られた現在進行形のことを、特に外国の出来事や国際情勢を的確に判断・評価するのは難しい。冷戦期には、「平等」と「自由」という、必ずしも相容れない二大価値観の間にあって、前者を重視する論者は、たとえ表現の自由や結社の自由が制限されていても、社会主義体制による「平等」の実現の可能性を何より大切なことと考えていたし、政治的自由や選択の自由をより重視する論者は、社会主義体制下における政治的・社会的自由の制限こそを問題視し、資本主義社会における格差の存在をある程度止むを得ないものと考えていたのだから、同じ事件や事実に直面しても、まったく正反対の結論や評価を下したとしても不思議ではない。今から振り返れば、論壇の両陣営の間でのかみ合わない議論だったのかもしれない。ただ、どちらか一方の結論だけを大学や高校の授業で押し付けられ、その通りに答案を書かなければ、悪い成績をつけられてしまったとしたら、「冷戦」の害悪は教育現場にも持ち込まれていたといわざるを得ない。

こうしたイデオロギーの違い、入手できる情報の限界によって、社会評論や政治評論は、後から読むと的外れな議論の方がむしろ「当たり前」なのかもしれない。それでも時々、「おお、こんな時にこんなことを言っていたのか」と意外な発見があるのが興味深い。アメリカ「建国」200周年の1976年3月の『時事英語研究 創刊30周年記念特大号』(研究社)にもそんな論文が載っていた。硬派のTV司会者・田原総一朗氏が東京12チャンネル・ディレクターの肩書きで、ベトナム戦争を扱ったドキュメンタリー『ハーツ・アンド・マインズ』の映画評という形で書いているのだが、その中で

「日本で目にするルポルタージュや映像によると、ベトナム人たちは、アメリカ軍に家を壊され、田や畑をメチャクチャにされ、殺しに殺されながら、じっと耐えているあいだに、いつの間にか戦いに勝ってしまったように思えるが、もちろんそんなはずはない。アメリカ軍に破壊され、殺されながら、そのアメリカ軍を打ち破り、殺しに殺したから勝ったのである。戦うとは、殺戮に殺戮で応じるものであり、戦争に勝つのは正しいからではなく強いからである。ところが日本で目にするルポルタージュや映像は、この戦い抜きの、ベトナム人の正当性とアメリカ軍の不当性のみを主張するものが多い」 (162頁)

とはっきり書いているのが目を引いた。ベトナム戦争当時を扱ったドキュメンタリーも国際政治を勉強するようになってから見たに過ぎず、リアルタイムでは報道の雰囲気は知らない私だが、田原氏が言う事情は容易に想像がつく。田原氏はさらに

「戦争を放棄した日本人が、たとえベトナム人の正当性と、その抵抗ぶりを評価しても、その戦いぶり、戦力は認めにくいという事情はわかる。しかし、認めにくいからといって見ないふりをするというのは事実を歪めてしまうことになるだろう」(163頁)

と指摘しているのは、報道の最前線に立つ者として、しかも今から30年前の、現在よりもはるかに反戦平和主義の呪縛が強かった時代の記述としては大したものだと感心した。

19世紀のドイツの哲学者ニーチェ(1844-1900)の有名な著作に『反時代的考察』(1876)がある。ニーチェは「反時代的考察」の重要性を以下のように説いている。

「私は、時代が正当に誇りとしている或るもの、すなわち時代の歴史的教義をここで、はっきりと時代の害悪、疾病、欠乏として理解しようと試みるからであり、それどころか、われわれすべてが身を焼き尽くす歴史熱に罹っており、これに罹っているを少なくとも認識すべきであると信ずるからである。われわれはわれわれの徳と同時にまたわれわれの欠点をも栽培するとゲーテは言ったが、これが本当に正しいならば、(中略)一応、私の思うままを述べてよろしいであろう」 (小倉幸祥訳『ニーチェ全集 第4巻 反時代的考察』理想社、p.100)

ニーチェの「反時代的考察」は、現代批判や歴史主義批判であると同時に、ショーペンハウアーやワーグナーを論じた文化、芸術、教育論であるが、時代とシンクロしていかざるを得ない時事評論、政治経済論にこそ、時代の価値観に流されない「反時代的考察」が必要だと痛感させられる。だが言うは易し、行なうは難しで、評論対象である現在の価値観に流されないとしても、自分が今まで生きてきた時代の価値観、教育に知らず知らずに拘束されている面があるはずだから、「時代」を超えることは難しい。少なくともそうした緊張関係の中で考えていくバランス感覚だけは失わないようにしないといけないだろう。


最新の画像もっと見る