紅旗征戎

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謝罪と責任のポリティックス

2005-08-07 08:13:39 | 社会
人間の行動や選択に過ちや失敗はつきものである。誤った判断や行動で他人に迷惑をかけたり、他人の気持ちを傷つけたり、人間関係で取り返しがつかなくなってしまうことは決して珍しくない。タイムマシーンで過去には戻られないので、やってしまったことや選んでしまったことを後悔しても始まらない。どのように修復するかで力量が問われるのだろう。
 
責任を感じ、間違ったことに謝罪するのと、それを相手に素直に受け入れてもらうのは容易ではない。往々にして加害者より被害者の認識の方が重い場合が多いし、人に受けた恩は忘れやすいのに対して、人から受けた被害や嫌なこと・辛いことはなかなか忘れられないものだ。人生や人間関係でもバランスシートをつけられれば、もう少し客観的に把握できるのかもしれないが、多くの場合、喜怒哀楽は主観そのものなのでわかっていても簡単に赦したり、素直に受け付けられない場合も多いだろう。

個人間でも謝罪のタイミングや言葉、それを受け入れてもらうことは難しいわけだが、国家間ならなおさらである。日本の「戦争責任」についての中国や韓国と日本との間の認識の違いや感情的な行き違いはその典型である。第二次大戦中に日本が中国や韓国に対して行なったことを間違っていたと思い、日本人として真剣に謝罪したいと思っている政治家や官僚、民間人は決して少なくないだろう。その一方で、「戦争責任」という概念そのものを受け入れず、謝罪する必要がないと思っている政治家や歴史家もまた無視できない数だけいる。そのため過去の日本の植民地支配や戦争責任を否定して、中国や韓国の人々の神経を逆撫でするような政治家の発言が絶えることがない。
 
アジア諸国の人々がそうした日本人政治家の発言に触れれば、「だから日本人は戦争でやったことを謝罪も反省もせず、美化している」と思ってしまうだろう。首相が毎年靖国神社を参拝しているとなおさらそれを裏付けているように思われてしまう。一方で、日本の納税者の中には日本の円借款で北京や上海の空港建設費の約50%がカバーされたことなどを知って、中国の経済成長に対する日本の政府援助が十分に「感謝」されていないことに不満をもっている人も少なくない。中国・韓国の人からすれば日本の「謝罪」や「賠償」が不十分であるとして不満を抱き、日本人の「反省」の度合いに不信感をもっているのだが、日本人からすれば過去の罪悪感を軽減したいという心理も働くのだろうが、日本の戦後の経済援助の実績を強調し、それが十分評価されていないのに不満をもつという相互不信の図式ができあがってしまっている。
 
戦争を遂行指導した直接の責任がある政治家・軍部指導者以外の一般日本人自身の間にも戦争の「被害者」意識があるのだから、「加害者」意識を共有しろと要求されても理屈では分かっても素直に受け入れ難いかもしれない。ここで大切なのは、1965年日韓基本条約1972年日中共同宣言における賠償請求権の解釈といった法的議論の問題だけでなく、国民感情というよりデリケートな側面である。
 
二つの条約における「賠償」の仕方の問題点を指摘することは容易かもしれないが、双方の国民全員が納得するような政治的決着は不可能である以上、二国の政府間交渉として政治的決着をつけない限り、国交正常化は不可能で、両国が戦後の新たな関係を切り開くことができなかったであろう。しかし日本軍の占領や攻撃によって家族は失った人、家を失った人、人生が台無しになった人、それを祖父母や親たちから聞かされてきた子供や孫たちの反日感情を癒すことは至難の業である。その重みを日本人は背負っていかねばならないだろう。

 しかしもう一つ大切だと思うのは、語弊を恐れずにあえて言えば、糾弾の「快感」にひたってはならないということである。人間関係でも政治の場面でも、一方的に「絶対善」、「絶対正義」の立場に立てることは稀であり、必ず双方に痛いところというか、弱点や非難されるべき点があるはずなので、相手に言い返されるのを恐れるとあまり一方的に強くモノを言えない場合が多い。しかしそういう関係でいいのではないだろうか?
 
アメリカ人に対して原爆投下の責任を問う日本人や、日本人に対して南京大虐殺や従軍慰安婦問題の責任を問う中国・韓国人(や場合によっては彼らを支援する日本人活動家たち)の口調がともすると、この「絶対正義」の安全地帯から発言しているように聞こえることがある。こうした問題に対して、良心的なアメリカ人や日本人ならば反論できずに沈黙するか、自分では到底取りようもない責任を感じていることを表明するか、どちらかしかできないかもしれない。しかし被爆者本人や被爆者の家族、あるいは日本による侵略の直接の犠牲者やその家族が糾弾するのはともかく、東京生まれの広島市長が第2次大戦後生まれのアメリカ大統領を非難しても、また20代の中国人の若者が何の罪もない日本料理店に投石しても、糾弾や責任追及のあり方として何かちぐはぐな観があることは否めない。
 
戦後処理として国家間関係として政治的に一応の決着をつけることはできたかもしれないが、国民感情としては60年決着がついていないことは多い。いや永久につかないのかもしれない。犠牲者の側の「赦し」の気持ちと、加害者(あるいは加害国民)の側の長期的な「原罪意識」の持続がうまくかみ合わない限り、「もう謝罪した」「いや反省していない」という議論の堂々巡りが避けられないのだろうか?


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