紅旗征戎

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「ずっと」の美学

2005-08-30 10:19:43 | 社会
外国語を学ぶ利点の一つは日本語に敏感になることだろう。その意味では古文や漢文を習うのも、現代日本語のあり方に自覚的になる意味で大いに意義があるに違いない。アメリカ留学中に日本語クラスのティーチング・アシスタントをするという、今から思うと貴重な経験をした。毎週、漢字の小テストの採点をしていたら、ある日、インストラクターに呼び出されて、「あなたの採点は厳しすぎます。レフトかライトのどちらかがあっていたら部分点をあげてください」と言われた。しかし「へん」と「つくり」の片方だけあっていても全く別の意味の漢字になってしまうのだが・・・とは思ったが、翌週から部分点をやるようにした。

「東京ローズ」というすごいネイミングの比較的で値段が高い日本料理店があったのだが、ある日、アメリカ人学生の作文を採点していたら、「トウキョウローズよりもピザハットのほうがおいしいです」などと書いてあり、アメリカ人の男の子の味覚ならそうだろうなと微笑ましく思ったりした。「~より~の方が・・・」という構文を使って文章を書く宿題だったようだ。こうした比較表現はおそらくあまり本来の日本語になじまないのだろう。英語の比較級、最上級を日本語を訳すと、「より大きい」とか「最も大きい」といういかにも翻訳調になってしまう。しかし逆に英語を書く時に、この比較級は実は、例えばA longer life means a longer retirement(寿命が延びたことによって、退職後の生活が長くなった。)という具合に、「~すれば、~になる」という因果関係を説明する時に便利なのである。

しかし高校までの英語教育では作文よりも英文和訳重視なので、「no more A than B = B でないと同様にAでない」といった変な解釈公式ばかり教えて、高校生や受験生の間で比較級アレルギーを増殖させているのが現状である。英語で比較級が発達しているのは、アングロサクソン文化圏の人々の競争心が旺盛で、常に他人に優越感を示したり、他人との関係でしか自己確認できないからだ、などと安直な文化還元主義的な説明をする人もいるかもしれないが、言語によって表現が豊富な分野とそうでない分野があることを自覚できるのも外国語学習の面白さである。

反対に日本語が得意な分野はご存知の方も思うが、「どんどん」、「すいすい」、「さらさら」といった擬態語・擬音語・オノマトペの類である。宮沢賢治がオノマトペを多用したことはよく知られている。擬音語のことは知っていたのだが、アメリカ人と話して気づいたのは、日本語の「ずっと」という言葉にぴったりと当てはまる英語がないことだった。

ここでいう「ずっと」は「ずっと大きい」の「ずっと」ではなく、「ずっと変わらない」方だが、和英辞典ではall the way, all the time, the whole ~ through, always といった訳例があげられているが、いずれも日本語の漠然と変わらない状態が続くニュアンスが表現されていないような気がする。「いつも always」でもなく、「永遠にforever」でもない、ずっとの微妙な語感が英語で伝わらないようだ。 あるアメリカ人学生が「私は日本語の『ずっと』という表現が好きです」と言っていて、なるほどそうなのかと発見したのがきっかけだった。これも変わらないことを愛する日本文化の象徴なのだろうか?

試しに歌謡曲の歌詞検索サイトで「ずっと」をタイトルに含む曲名を検索してみると26曲もヒットし、そのものずばりの「ずっと」というタイトルの曲や「ずっとずっと」という曲も二曲もあった。歌謡曲なので大部分は恋愛の移ろいやすさ、人の心の変わりやすさを歌って、だから「ずっと」変わらないことを切望したタイトルになっているのかもしれない。その一方で変わりやすさ・はかなさの代名詞のような「桜」をタイトルに含む曲も、「桜」で48件、「さくら」で16件もあった。「さくら」のはかなさを愛でつつ、「ずっと」を願っている日本人像が浮かび上がってくると言うとこじつけ過ぎかもしれないが、日本人としてはわからなくもない。

「ずっと自民党にいたかった」という人たちの声も遠くで聞こえてきそうな今度の解散選挙だが、「ずっと」変わらないことがいいことなのか、改革という美名の下、桜のように散ってしまうのがいいことなのか、有権者の展望をもった判断が必要とされるだろう。


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