紅旗征戎

政治、経済、社会、文化、教育について思うこと、考えたこと

大学・大学院におけるノートの取り方

2005-08-22 09:57:23 | 教育・学問論
このブログの読者は学生も多いようなので、高踏的なことばかりでなく、たまにはハウツー的なことも書いてみたい。この20~10年くらいでドラスティックに変化したものの一つに大学の講義があるだろう。私の学部生の頃はまだ教授たちはほとんど板書せず、かといってプリントを配るわけでもなく、話し続けるだけだった。そのため学生は参考書などを使いながら、固有名詞や原綴り、漢字などを類推して書かなければならなかった。
 
中には几帳面な学生もいて、講義ノートをわざわざワープロで打ちなおして、ゼミの皆にコピーさせてくれたような親切な学生もいたが、いずれにしても講義を集中して聴いて、頭で整理してノートを取らないといけなかったのである。今は、というと教員の多くがハンドアウトを用意したり、パワーポイントを使って授業を行なっている。そのため昔と比べて、あまり予習しなくても、また集中して聞かなくても授業を理解できるようになった(はず)である。

私自身もかなり詳細なレジュメを用意して講義しているのだが、ホームページ上で公開している私の講義レジュメをおそらく見たのだろう、他大学のベテランの先生から酒席で、「今の若い先生は詳しい講義資料を配ることによって、学生が講義内容を自分なりに頭の中で整理構成し、抽象化する能力を奪っているきらいがある」と言われた。確かに一理あるかもしれない。
 
私は自分が詳しい資料を配ることで学生の「アタマ」を悪くしている可能性と、学生の講義の理解度をアップしている可能性の二つを天秤にかけたら、後者がずっと上回ると確信をもっているので、そうした皮肉?を言われても変えるつもりは全くなかったのだが、レジュメに書かずに講義で説明した部分が「全く分かりませんでした」と学生から何度か言われてしまうと、これでいいのかなあ?と反省する場面も増えてきた。
 
また「レジュメのどこを読んでいるのかわからない」、「前の週にレジュメを配ってくれ」などといった希望も少なくなく、学生のレジュメ依存がどこまでも進んでしまっている現状がある。レジュメを「朗読」しているつもりはさらさらなく、あくまでも参考資料に過ぎないのだが、私自身がまだ上手く教材を生かしきれてないのかもしれない。

しかしながら手元にかなり詳しい情報を載せたハンドアウトがあるのだから、後はその上に、講義で聞いたことや、自分で辞書・事典・参考書で調べたことを書き込んでいけばいいだけのことである。よく『勉強法』の本で書いてあるが、場合によってはノートの見開きの左ページに授業で配られた資料を貼り、右ページに講義で聞いたこと、分からなかったこと、ポイント、関連情報などを書き込んだり貼り付けてもいいかもしれない(もちろんページが逆でも構わない)。ルーズリーフを使えば、より便利だろう。

他方、アンケートをとると、「レジュメが詳しすぎるのでつい寝てしまいました」という声も少なくない。同僚の中にはそうした学生の傾向を把握して、講義の内容をあまり詳しくレジュメには載せず、資・史料や図表しか配らないように変えたという人もいる。それも一案だろう。また小中学校のように丁寧に板書をして、それをいちいち学生にとらせている人もいるようだ。「ノートをきちんととると授業に出た気になる」と喜ぶ学生もごく一部いるようだが、黒板を一斉に写させるスタイルは私は趣味に合わないし、大学のあり方だとも思えないのでそうしたやり方はとっていない。

しかし自分自身の講義スタイルで反省させられることは多い。ある日、ゼミ風景をビデオで撮影してもらったのだが、後で見たところ、自分のコメントが早口すぎて何を言っているのかよく分からなかった。私の板書はいい加減で判読しにくいし、不規則なので毎年、学生から不満を言われるが、「だから詳しいレジュメを配っているのだ」といっても許してもらえないのかもしれない。いずれにしても授業中は講義を聞いて考えることにより時間を使って欲しいと思っている。

自分自身の学生時代を振り返ると科目によっては1時間に10頁とかかなりノートを真面目に取ったのだが、熱心だったからというより、そうでもしないと眠たくなるし、退屈だったからという理由が大きかった。しかしそのおかげで耳だけで聞いて、ポイントを頭の中で整理する能力は確かに磨けたような気がする。留学向けの英語試験であるTOEFLで学生たちが苦手にしているのが、講義をシミュレートした部分のリスニングである。単語が難しいだけでなく、かなりまとまった長い文章を話されているのを聞き取り、ポイントを記憶して、問題に答えなければならないのでお手上げという学生が多い。
 
数年間、TOEFL向けの授業を教えて気づいたのだが、単に英語力の問題ではなく、日本語でも大学の授業で「耳だけで聞いて頭で整理する」習慣がなくなっているので、その手の能力が開発されていないのだろう。ゼミ形式の授業でも一部のすぐれた学生は、他の学生が話したポイントを頭で整理した上で、自分のコメントを付け加えることができるのだが、大部分の学生にとっては訓練しないと難しいスキルである。しかし社会に出てからも、また研究を続ける上でも役立つし、不可欠のスキルなのでたとえ詳しいハンドアウトがあっても、あまり文字情報に頼らず、音声情報で考える習慣をつけてほしいと思う。外国語学習でも、またニュースでもラジオを活用することがこの種の能力を磨く上で役立つと経験的にいって思う。時代遅れに見えるが、特に外国語のトレーニングにはラジオは便利なはずだ。

最後に大学院生のノート・テイキングだが、この場合は講義ノートというより、自分の研究のためのノートだが、研究に必要な基本文献のポイントを整理したノートはどんな形式でもいいから作って、電子ファイルとして保存しておいてほしいと思う。大学院に入って1年目に先輩から教えてもらったのはまさにノートの取り方とその重要性だった。学部と違って、大学院に入ると急に大量の洋書を読まなければならなくなったが、見直せれば欲しい情報がすぐに見つかる日本語文献の場合と異なり、外国語文献の場合は読んでも、どこに何が書いてあったのかすぐに忘れてしまう。整理しておけば後で見直す場合も、論文で引用する場合もラクなので、どの本の何ページの何行目からとったのかも明記してノートを作っておいてほしいと思う。修士1年の夏はほとんどこの手のノート作りに明け暮れた記憶がある。

もう一つは院生にも学部生にも言えることなのだが、質問しに来て、こちらがアドバイスや説明をしていても、ぼーっとしてメモ一つとらない学生も少なくない。記憶というのは当てにならないので、いつでもメモを取る習慣をつけるようにしてほしい。こんなことはブログで書かないで直接学生に言えばいいではないかと思われる読者の方も多いかと思う。実際、身近な学生には折に触れて言っているのだが、残念ながらなかなか定着しない。これを読んだら、夏休み明けの授業からは早速実践してほしいと思う。


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