言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ④ 西行小論

2021-04-18 10:50:00 | 言の葉綴り

言の葉114 〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

 西行小論


投稿者 古賀克之助


〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 西行小論より


西行小論


西行が生涯をかけて生きたのは、ちょうど崇徳、後白河両派が、政権と愛欲の問題をからめてあらそった保元、平治の内乱をへて、平氏を中心とする貴族、武家の合体時代がしばらくつづき、やがて束の間のうちに反平氏勢力による鹿谷の陰謀事件となり、それが治承四年の頼政、頼朝、義仲の挙兵にまで発展し、ふたたび源氏内部の争いをへて鎌倉幕府の成立となるといような、貴族社会の没落と武士階級の興隆を象徴するあわただしい過渡期の動乱であった。

出家以前の西行は、鳥羽院北面の武士だったとされる。

当時、いくらかでもいんねんのあった堀川、鳥羽、近衛などの天皇は、売官によってかろうじて生活をささえるほどに衰弱しており、貴族や武士たちの勢力に浮き草のようにかつがれて、「あさましき」政争をくりかえしていた。

保延六年(一一四〇)、西行は、貴族社会の家人であることを嫌って、武家をすて、動乱の外に立っている。個人的な理由があったにしろ、なかったにしろ、西行の出家が、剃髪して坊主を装うことで、現実の圧力に対する安心感のささえにしたり、世間の風当たりをちいさくしておいて、かえって世俗的な執着を露骨にむきだすというような、当時流行の出家とは逆のことを意味したのはあきらかである。

かれが、そむき果てたのは、政争と愛欲の葛藤で、盲目的にいがみあった崩壊期の貴族社会だったが、もちろん、武門勢力に率いられて、山野に死闘していた単純な野人たちとおなじように、なぜともわからずに動乱にくわわってゆくためには、あまりに自意識がつよすぎたようである。こういう人物は、いつの時代でも、思想詩人としての役割を負わなければならない。たとえ、かれがねがってもねがわなくても、過渡期の時代的な苦悩は、かれの一心に集中して受感されてくる。かれの自意識がつくりだす苦しみとか、あはれとかは、生粋に内部からやってくるようにみえるが、そこにどうしても時代の苦しみやあはれが、形にそう影のように離れないでつきまとってくる。西行は、きっと、どこをほっつき歩いても、何気の山岳にこもっても、権力の交替する首都をのがれることができなかったのである。


世の中をすててすてえぬここちして都はなれぬわが身なりけり


こういう西行の率直な詩には、時代の方で、かれを都から離そうとしないという意味が、複雑なかたちで象徴されているとみなければならない。西行にとって、出家は、たいせつな意味をもっていた。西行自身も、その意味をきわめてみたくて、何度もじぶんのこころに問いかけるような詩をかいているが、うまくゆかなかった。ようするに、現実社会に未練がありすぎるから、かえって厭世的にもなるのだ、というような逆説的なところまで、じぶんのこころを追いつめてはみたのだが、かれの社会への関心とか執着とかが、思想詩人としての過敏な現実洞察力から直接やってくるので、現実のほうでかれを捨ててはくれないのだ、ということをさとりうべくもなかったのである。


雲雀あがる大野の茅原夏くれば涼む木かげを願ひてぞゆく

心なき身にもあはれはしられけり鴫立沢の秋の夕ぐれ

風さえてよすればやがて氷りつつかへる波なき志賀の唐崎

駒なづむ木曽のかけ路の呼子鳥たれともわかぬ声きこゆなり

年たけてまた越ゆべしと思ひきや生命なりけり小夜の中山


Wander geselleのように各地を行脚しては、そのあいだに、とまり木にとまるように山岳に住居をすえるという生活をおくったため、西行が自然をテーマにしてたくさん詩をかいたのは当然だったが、これらの詩は、自然のなかをとおりすぎるこころの矛盾が、詩的な本質を作っているというように表現されている。もとより、叙景と抒情のあいだに境界などかんがえてはいないのだ。自然は西行にとって観念のスィステムとなりえないで、あたかもこころの世界に映っている社会そのもののようであった。西行は、おしいところで幽玄からも有心からも外れているといった風な、失敗作をたくさんつくっているが、もちろん、それがおしいというのは、当時の詩論の美学的な基準によるのであり、西行にすれば、そんなことは問題ではなかったであろう。ただ、かれが問題としなければならなかったのは、自然をテーマにしても、苦しげな内心の矛盾がひとりでに吐き出されてしまう理由が、どうしてもわからないため、思想的な体系をつくりえなかったことであったにちがいない。

中世の浄土思想は、もう戸口のところまでやってきていたはずであった。西行が予感したのも、それにちかいものだったろうが、たずねる、もとめる、ねがふ、というような願望のコトバを、詩のなかにいくら吐き出してみても、際限なくあとには、なにかはっきりわからないものがのこっているように思われたにちがいない。西行こ「墓地」詠が独特の象徴的な意味をもってせまってくるのは、そういう点についてである。


鳥部野を心のなかにわけゆけばいまきの露に袖ぞそぼつる

亡きあとをたれと知らねど鳥部山おのおのすごき塚の夕ぐれ

かぎりなく悲しかりけり鳥部山亡きをおくりてかへる心は

舟岡のすそ野の塚の数そへてむかしの人に君をなしつる


ほんとうは、西行のこころを占めていたのは鳥部野の墓地に葬られて、しずかに眠っている死霊でもなければ、むかしの亡き人でもなくて、内乱に加わって、山野に現にごろごろと打ち捨てられた死人武者や、飢餓のため悶死したり、さまよったりしている兵火のギセイ者たちのことだったかもしれない。しかし、現実の動乱に眼をこらしているかぎり、かれの思想は体系をとりえなかったのである。かれが、どこかに、自分の思想が成熟してゆく道すじをもとめようとすれば、動乱の死者ではなくて、墓地に眠った死霊について思いをこらさなければならなかったのかもしれない。墓地をとおって地獄や浄土へゆくみちを思い描くほうが、こころが定まったのかもしれない。「鳥部野を心のなかに分けゆけば」というのはそういうことではなかったのだろうか。西行の思想は、あきらかに、中世の浄土イデオロギーにたいして、先駆的な意義をもっているとおもわれるのだが、そのためには、じぶんのこころのなかで、地獄のような矛盾の性格をおしひろげ、時代にたいしても徹底的な洞察をつけくわえることがひつようであった。いずれにしても、過渡期の内乱と政争を否定して、詩人として生きることを思いきめたときから、かれがゆくべきみちは、いかにして、じぶんのこころに映った現実の動乱に、体系を与えて安心立命をえるかということのほかにはなかったはずであった。もちろん、西行には安心立命はやってこなかったのだが、柄にもなく外観だけは当時の山岳仏教の流行にへつらって出家をし、詩壇の流行にならって古今集を粉本にして詩をつくっても、たどっていった必然の道は、平地仏教思想のみちであり、幽玄の詩論に異をたてるみちだったのはあきらかである。

西行を浄土イデオロギーのちかくまで駆り立てるには、たぶんかれの独特なこころの世界があずかって力あった。


(中略)


源空が浄土宗をひらいたのは安元元年(一一七五)であり、西行五十八歳のときである。ここに中世思想の主流が、体系的なかたちをとりはじめたのだが、すでに出家した以後の西行の、詩人としての独自な悩みのなかに、それははっきりとした形でつかまれていたということができる。源空から親鸞へと発展していった封建イデオロギーとしての浄土思想は、西行の子供うたや、こいうたや、生活歌のなかに、現実上の基盤と思想上の骨組をはっきりとあらわしていた。日本の中世思想は、けっしてヨーロッパのように、教会と神学と理想の聖女のえい像をたどってつかまえられたのではなく、動乱と厭世と幼児がえりのこころをとおって、親鸞の逆説的な単純な信仰へゆきついたのである。『梁塵秘抄』のなかの有名な


あそびをせんとや生れけん

たはぶれせんとや生れけん

遊ぶ子供の声きけば

我身さへこそゆるがるれ


こういう俗謡には、かなり正確な中世思想への導入口がかくされていたのではないだろうか。西行の子供をよんだ「たはぶれ」歌は、もちろんこの俗謡にはくらべれば、はるかに苦がく、はるかに論理的で、いっさいの気分的な情緒や、空想力を排除した強じんさをもっている。西行は、矛盾にみちた倫理感をきたえて、『往生要集』の著者が、異常なまでにしつように描いてみせた罪のイメージとおなじイメージを描いてみせたのである。


あはれあはれかかる憂き目をみるみるは何とて誰も世にまぎるらん

憂かるべきつひの思ひを置きながら仮初の世にまどふ儚さ

一つ身をあまたにかぜの吹き切りてほむらになすも悲しかりけり

なべてなき黒きほむらの苦しみは夜の思ひの報いなりけり

ゆくほどに縄のくさりにつながれて思へば悲し手かし首かし


(中略)

西行は、当時の理論の規範にのっかりながらも、なお、西行以外のたれもつくりえなかった詩をいくつかのこしているのだ。


ませにさく花にむつれてとぶ蝶の羨ましきもはかなかりけり

有明はおもひ出あれやよこ雲のただよはれつるしののめの空

高尾寺あはれなりけるつとめかなやすらひ花と鼓うつなり

弓はりの月にはつれてみし影のやさしかりしはいつか忘れん

年へたる浦の海士びとこととはん浪をかつきていくよすぎにき


治承四年、源三位頼政は、宇治平等院に、源頼朝が伊豆に、貴族階級、平氏の合体政権の打倒の兵をあげた。西行はすでに、晩年にたっしていたが、貴族階級の没落と封建階級の興隆とを、まのあたりにみながらいくつかのいくさのうたをつくっている。そのなかの一つ。


世の中に武者おこりて、にしひんがし北南、いくさのならぬところなし、打ち続き人の死ぬる数きく夥し、まこととも覚えぬほどなり。こは何事の争ひぞや。あはれなることの様かなとおぼえて


死手の山こゆる絶間はあらじかし亡くなる人の数つづきつつ


かれは、この動乱が、封建社会の成立にいたる過渡期の動乱であることを洞察したわけではない。こは何事の争ひぞや、あはれなることの様かな、というのは西行の本心であったろう。もちろん、なぜ、武者がおこらねばならなかったかを知っていたわけではない。だが、青年期に、すでに貴族社会の家人として、そのあさましい政権の争いと売官生活とをみていたにちがいない西行が、出家というかたちで、かれらからはなれ、動乱からもはなれたとき、もはや自分の生涯をどこへむかって走らせるかの目的を失ったといえる。そして、かれの詩は、思想詩人の宿命によって、過渡期の現実的悩みを反映せずにはいなかったのである。