言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

パリの憂愁

2016-05-16 12:00:05 | 言の葉綴り
言の葉6
パリの憂愁

その1 パリの憂愁
ーボードレールとその時代ー
河盛好蔵著
24 (章)より抜粋
ボードレールは1859年9月27日付のヴィクトル・ユーゴーに宛てた長い手紙の終わりに次のように書いている。当時ユーゴーはナポレオン三世から国外追放を命じられて英領ガーンジー島に住んでいた。
「伝え聞くところによれば、あなたは、高抜、詩的で、自分の精神にも似た住居におすごしで、風と海とのとどろきのさなかで、幸福にかんじていらっしゃるとのことです。あなたが、偉大であれるのと同じにまで幸福になられることは、決してないでしょう。あなたが追懐や郷愁の念を感じておられるとも、伝えて聞いています。これはおそらく嘘でありましょう。しかし、もしこれが本当だとしても、このみじめで、たいくつなパリ、パリ=ニューヨークに一日をすごされるだけで、完全に癒ってしまわれるだろうと思います。私にしても、ここで果たさねばならぬさまざまな義務がなかったら、世界の端まで行ってしまうでしょう。」
(人文版「全集」II 381頁)
また同じ年の12月7日付の手紙と共にユーゴーに送られた名作「白鳥」(この詩は翌60年1月22日付の雑誌「閑談」に発表、61年2月始めに刊行された『悪の華』第二版に収録されている)のなかで、

昔の巴里はもはや無い(都市と言はれる形態の
移り変わりの迅速は、人の心の変貌より更に激しい)。
…………
巴里は変わる、然し私の憂鬱の中では 何も
動かなかった。新築の王宮も、組まれた足場も、石塊も、古い場末の町々も、私にとって一切が寓意となって、なつかしいわが思出の数々は、岩より重い。
(鈴木信太郎訳)

と歌っている。
本章ではこの激しく変貌しつつあったパリと、その改造者オスマンについて書きたい。………

その2 憂愁
ボードレール全集I
福永武彦編集 人文書院刊
詩人としてのボードレール
3 憂愁或いは『冥府』より抜粋

…スプリーン(憂愁)はメランコリー(憂鬱)と並んで、フランス・ロマン主義に於いて流行した英語からの外来語で、英語では本来は「脾臓」の意味であり、源はギリシャ語のスプレーンからきている。…
…怒り、悲しみ、空しさ、虚脱感、無価値感、それらの総和が憂愁なのである。…
…憂愁という主題は、そこから時間や、倦怠や、忘却や、死や、悔恨などの、多くの副主題を呼び起こす。…

その3 詩集 悪の華 白鳥
ボードレール全集I
福永武彦編集
悪の華第二版より

89 白鳥
ヴィクトル・ユーゴーに
I

アンドロマックよ、あなたは想う、このささやかな川、
あなたの寡婦の苦しみが嘗て限りなく溢れ出て
その上に輝いた哀れな悲しい鏡であるこの川は、
あなたの涙にながれを増した故郷偲ぶこのシモイスの川は、

突如として僕の肥沃な記憶を更に豊かにした、
折しも僕が新しいカルーゼル広場を横切って行った時に。
古いパリは最早ない(都市の形は
人の心よりも尚早く、ああ、変わってしまうものだ)。

今は心のうちに見るばかり、設営されたバラック小舎を、
粗造りの柱頭に、ごろごろした円柱の山積みを、
雑草、溜まり水で緑青色に染まった大きな石の塊りを、
それに窓硝子に光っていたごたまぜの古道具を。

そこに動物のいる見世物小屋が掛かっていたこともある。
そこに或る朝、僕は見たのだ、冷たく澄んだ大空のもと、
「労働」が目を覚まし、ごみ集めの車が
静かな空気を引き裂いて、か黒い旋風を巻き起こす時、

檻の中から逃げ出して来た一羽の白鳥が、
水かきのある足先で乾いた舗道を引掻きながら、
でこぼこの地面の上にに白い翼を引きずって行ったのを。
水も流れぬ溝のそばで、鳥は嘴をひらき、

埃にまみれてその翼を神経質に沐浴させて、
さて、想いはふるさとの美しい湖にかえって、言った。
『水よ、いつお前は雨と降るのか、雷よ、いつお前は鳴るのか?』と。
僕は見る、この奇妙な宿命の神話である不幸な鳥が、

オヴィデウスにでる人間のように、時折、空の方へ、
皮肉な空、残酷なまでに青く晴れた空の方へと
痙攣する頸の上で渇えに喘ぐその頸を伸ばすのを、
恰も神に非難の言葉を浴びせかけるかのように!

II

パリは変わる! しかし僕の憂鬱の中では何ひとつ
動いたものはなかった! 新しい宮殿、組んだ足場、石の塊り、
古びた場末町、すべては僕にとって寓意となった、
そして僕の懐かしい思い出は岩よりも尚重い。

それ故にルーブル宮を前にして一つの面影は僕を引き裂く。
僕は想う、あの大きな白鳥を、その狂ったようなその身振りを、
流刑の囚人のように、滑稽でしかも崇高に、
白鳥が絶え間ない熱望の牙に噛まれていたのを! そしてまたあなたを、

アンドロマックよ、偉大だった夫の腕から
賤しい家畜同然に、居丈高のピリュスの手に落ちて、
亡骸のない墓の側で、あなたが茫然と倒れ伏したのを。
ヘクトールの寡婦よ、ああ、そしてヘレニュスの妻よ!

僕は想う、一人の黒人女を、痩せ衰え、肺を病んで、
泥濘の道を行き悩み、凶暴な目を据えて、彼女が
果てしない長城のように霧に連なる彼方に、
ここにはない壮麗なアフリカの椰子に樹を求めるのを。

また想う、決して、二度と、見いだすことの出来ないものを
失ってしまったすべて人たちを、自己の涙で咽喉を潤し
善良な牝狼と見立てて「苦悩」の乳首を吸う人たちを!
花々にように萎れて行く痩せ細った孤児たち!

このように、僕の精神が流刑された森のただ中で、
一つの古い「思い出」は角笛の高鳴るようにいま響く!
僕は想う、孤島に置き去られて忘れられた水夫たちを!
囚人たちを、敗者たち!……またそのほかの多くの人たちを!