言の葉綴り

私なりの心に残る言の葉を綴ります。

胎児の世界 人類の生命記憶

2016-05-24 16:27:47 | 言の葉綴り
言の葉7
胎児の世界

胎児の世界 人類の生命記憶
三木 成夫著 中公新書 691

その1 まえがき より

過去に向かう「遠いまなざし」というのがある。人間だけに見られる表情であろう。
何十年ぶりかで母校の校庭に立つ。目に映る一木一草に無数の想いがこもる。「いまのここ」に「かってのかなた」が二重に映し出されたのであろう。いちいちの記憶が、そこで回想されたのである。
「記憶」と「回想」はよく混同される。思い出すことを前提におぼえこもうとする習性が、いつの間にか身にしみついてしまったからであろう。わたしたちには、しかし、度忘れということがある。その一方で、知らぬ間におぼえていたものが、何かの拍子にに、ふっと出てきたりする。
校庭の一木一草のその姿かたちが、幼い日々を通していつしかこのからだに入り込んだように、記憶とは、本来、回想とは無縁の場でおこなわれるもののようだ。いいかえれば、人間の意識とは次元を異にした、それは「生命」の深層の出来事なのである。アメーバの裾野にまでひろがる生物の山なみを舞台に、悠久の歳月をかけた進化の流れのなかで先祖代々営まれ、子々孫々受け継がれてきた、そのようなものでなければならない。人びとはこれを「生命記憶」と呼ぶ。
この本では、わたしたちの生命記憶に関する、もろもろの世界がとりあげられる。まず1章の「故郷への回帰」では、ある私的な出来事が紹介される。それは、何のおぼえもない遠い過去が、突如、一つのきっかけでよみがえるといったものだ。生命記憶のまさに回想であるが、この不思議な回想は、ここでは、しだいに遠く、人類の第四紀から哺乳類の第三紀を経て、やがて脊椎動物上陸の古生代までさかのぼり、ついには生命誕生の太古の海にまで行き着く。
これは、おとぎの世界かもしれない。しかし、ふつうのおとぎばなしとは違う。この夢の世界をつねに現実に繋ぎとめる、生物の「比較形態学」の所見が、その実証の網の目を全篇の底に張りめぐらせているからである。わたしたちの「胎児の世界」はその頂点に位する。
このII章に登場する胎児たちは、あたかも生命の誕生とその進化の筋書を諳んじているかのごとく、悠久のドラマを瞬時の“パントマイム”に凝縮させ、みずから激しく変身しつつこれを演じてみせる。それは劫初いらいの生命記憶の再現といえるものであろうか。ここではこの模様が、初めにニワトリの卵のなかで、次にヒトの胎児の正面像で、それぞれ観察されるが、わたしたちは、このいうなれば「胎児の夢」のあとに目を凝らし、その残照が、かの「奇形」とよばれるものの上にほのかにただようさまを、ただ茫然と眺めるだけだ。
胎児の演ずる変身の象徴劇は、こうして卵発生の秘儀として、代から代へ受け継がれるのであるが、この、つねに生命誕生の原点に帰り、そこから出発しようとする周行の姿、すなわち、「生物の世代交替」の波模様こそ、すべての「生のリズム」を包括する、まさに「いのちの波」とよばれるにふさわしいものではないか。それは生命記憶の根原をなすものでなければならない。III章では、これが初めに、ゲーテのいう「食と性の宇宙リズム」として示され、やがて、このはらわたのうねり、いわば「内蔵波動」に象徴される「永遠周行」の営みのなかに、わたしたち人間の歩むべき本来の「道」がたずねられ、求められる。
胎児の世界ーこの人類の生命記憶の故郷へ、わたしたちも、いちど、巡礼遍路の旅をしてみようではないか。

その2 胎児の夢
II 胎児の世界ー生命記憶の再現
再現について 胎児の夢より抜粋

……生まれてまだ目もあかない赤ん坊が、眠っているうちに突然におびえて泣き出したり、または何かを思い出したようにニッコリ笑ったりするのを、わたしたちはいつも見ている。それは、ほかでもない、母の胎内で見残した夢の名残りを、実際、見ているのだという。……

その3 母なる海
III いのちの波
内蔵波動 母なる海 より抜粋

胎児は十月十日の間、母親のお腹のなかでいったい何を聞いて過ごしてきたのであろうか。それは、絶え間なく響く母親の血潮のざわめき、潮騒である。子宮の壁をざーざーと打つ大動脈の搏動音、小川のせせらぎのような大静脈の摩擦音、そしてそれらのかなたに高らかに鳴り響く心臓の鼓動。それは何か宇宙空間の遠いかなたに消えていくような深い響きだ。銀河星雲の渦巻きを銅鑼にして悠然と打ち鳴らすような……。
これが「いのちの波」の象徴なのか。生の搏動のこれが根原というものか。……