言の葉綴り151心的現象論序説②
II 心的世界をどうとらえるか
1 原生疎外の概念を前景へおしだすために 吉本隆明著
心的現象論序説 吉本隆明著
昭和四十六年国九月三十日第1刷 出版 弓立社 より抜粋
1 原生疎外の概念を前景へおしだすために
ビンスワンガーやヤスパースのフロイト批判は、生物体としての人間なくしてはあらゆる心的現象なしという意味では欠陥をあらわにしている。しかし、すべての心的現象が、生理(性生理から脳生理まで)現象に還元できるとはかぎらないという心的現象の本質をかんがえるときに正当さをもつといわねばならない。
生理としての生物体が存在しなければ、あらゆる心的現象は存在しえない。このことはいうまでもなく〈自然〉としての人間の本質に根ざしている。それにもかかわらず心的現象は、生理的現象に還元しうるか? もし、量子生物学の発展が、生理的なメカニスムをすべて微視的にとらえうるようになったとき、心的現象は生理的現象によって了解可能となるか?もちろんこれにたいする答えは、〈否〉である。ただし不可知論的な否ではなく構造的に否である。これは心的存在としての人間の本質に根ざしている。この本質は単純化して説明すれば、生物体としての人間が、個々の細胞の確率的な動きのメカニスムを把握しうるようになったとき、心的な存在としての人間は、すでに〈把握しうる〉ということをも把握しうる冪乗された心的領域を累加しているという前提を、その把握が包括しているからである。このような意味では、生物体としての人間と心的な存在としての人間は、個体内部でも、集合的にも矛盾としてしか存在しない。
わたしたちは、いままで、フロイトの〈エス〉領域の世界を説明するのに、無意識という概念をつかわずに、原生的な疎外という概念をつかってきた。なぜならば、人間の最初の心的な領域は生物体の〈自然〉(有機的あるいは無機的あるいは人工化された)にたいする対象的な行為によって、しかも対象的な行為を異和として受容することによって形成されたという意味で外的な〈自然〉とも、自己の〈身体〉としての〈自然〉とも異なった領域とかんがえざるをえないからである。そしてこのばあいフロイトのいう〈エス〉という概念は、人間を生物体としてあつかっているのか、心的な領域としてあつかっているのか、また、人間の存在を個体としてあつかっているのか、集合的に共同存在としてあつかっているのか、といったことについて無造作であるにもかかわらず、〈エス〉領域を証明不可能だが実体あるものとしてみなしているからである。つまり、わたしたちは確かなことだけを云っているかどうかはべつとして、心的世界について確かなことをいいたいのである。
人間の心的な領域がもつこの特異な構造はもっと単純化していえば、つぎのようにいうことができる。
心的な領域は、生物体の機構に還元される領域では、自己自身または自己と他者との一対一の関係しか成り立たない。また、生物体としての機構に還元されない心的領域は、幻想性としてしか自己自身あるいは外的現実と関係しえない。
わたしたちが、フロイトの〈エス〉に類した心的存在性を原生的な疎外の心的な領域としてかんがえたとき、このような構造として存在する領域を意味している。
たとえば、〈性的〉な欲求とか、〈器質的な疾病〉についての意識は、生物体としての人間の生理機構に還元しうる心的な領域である。それゆえこのような心的な領域では、自己自身または自己と他者(たとえばAなる男とBなる女)との一対一の関係しか成りたたない。ところが、世界についての認識とか芸術についての情動とかは、生理的な機構に還元されず、自己自身にたいしても外的現実にたいしても幻想性(媒介的な心的領域)としてしか関係をもつことができない。
フロイトの心的なモデルは、いうまでもなく人間の心的な領域が、生物体としての生理機構に還元しうるという前提に根ざすものであった。しかし、この洞察は、すべての心的な現象は、生物体としての人間を原因とするという意味でしか正当性をもたない。生物体としての人間の存在は、原因ではあっても還元すべき基底ではありえないという心的領域の特異な位相は、フロイトの洞察には存在しなかったのである。フロイトのかんがえた心的なモデルからは、自己自身に対する関係、自己と他者との一対一の関係を、もっとも鮮明に確定する領域は、男の女に対する、または女の男に対する関係、いいかえれば〈異性〉の関係としての〈リビドー〉とならざるをえず、この〈リビドー〉の原形をつくりあげるものが、親と子〈一般的には家族〉の関係にあるとしたのは当然といわなければならない。この洞察は、逆に、もともと生物体としての人間の〈リビドー〉に還元しえない、文化、芸術、社会、世界認識の領域について〈リビドー〉の関係を拡張するという結果をうんだ。後にとりあげることができるように、このような領域でも、フロイトの洞察は一定の優れた成果をおさめている。しかし、そこでもつきまとう問題は、〈リビドー〉は原因ではありえても、還元すべき基底ではありえないということであった。
ここでわたしたちは、原生的疎外の心的な領域という概念の有効性を検証しえているわけではない。また、実体性をもっていることを無造作に主張しようとしているのでもない。ただ、この概念によって人間の心的な世界が、自己の〈身体〉の生理的な過程からおしだされた位相と現実的な環界からおしだされた位相との錯合としてあらわれること、そして、このふたつの位相は分離できないとしてもなお、混同すべきでない異質さをもっていることを明確にしめしうるものだとかんかえていることだけは確かである。