言の葉綴り

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〈信〉の構造 吉本隆明•全仏教論集成1944.5〜1983.9 ⑥親鸞について…その2 21/05/07

2021-05-07 08:02:00 | 言の葉綴り

116〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成1944.51983.9

⑥親鸞についてその2


投稿者 古賀克之助







〈信〉の構造 吉本隆明全仏教論集成

1944.51983.9 昭和五十八年十二月15日第一刷発行 著者吉本隆明 発行所 株式会社 春秋社 4親鸞について抜粋







親鸞についてその2


承前


日本の中世には、いろんな興味深いことが、思想的にも政治的にも、それからまた経済的にもあるわけですが、親鸞とか日蓮とか道元とか、日本の思想史上最も見事な思想家とおもわれる人たちが続々と出てきています。それはまことに見事な眺めですが、そういうなかで、親鸞が究極に求めた絶対他力は、愚者になり切るというところへゆきます。もちろんなり切ろうとしてもなり切れないことはありますが、そこを親鸞は逆説を使ってとび超えています。知識は、つきつめられた頂点から愚者を捉える過程というようなところに入っていきますが、そういうばあいに、本当の愚者になりえない矛盾がおこるわけで、その矛盾は逆説的にしかとび超えられないかもしれません。ここが親鸞の思想の要になっているとおもわれます。そのとび超え方にたいして親鸞は〈横超〉という特別の言葉を使っています。

親鸞の主著『教行信証』は、浄土系のインドおよび中国、日本の経典を集成し註釈を加えたものです。『教行信証』は、親鸞の浄土門の経典を独自に分類し集大成した主著で、ここでは仏教浄土門の最後の大成者です。親鸞そのものは生前『教行信証』によって人々の前に出てきていません。親鸞の思想が人々の眼のまえで展開されたのは、むしろ親鸞の著書よりも唯円が親鸞の語録を集めた『歎異抄』みたいなもののなかにあります。つまり親鸞の直接の著書とはいえないんだけど、弟子が親鸞の云うところを祖述したというような著書が、三願転入以降に展開されている親鸞の思想をみるばあいにみのがせないもので、あるいは従覚の編とされている『未燈抄』のようなものを、もっとみなくちゃいけないだろうなというふうにおもいます。それは『三願転入の展開』ということになるわけなんです。

では三願転入の展開とはなんなのかといいますと、今度は称名念仏をとなえれば浄土へ絶対に往けるんだ、それは一遍となえようと多遍となえようとどうでもいいんだ、とにかく一遍でもいいからとなえればいいんだ、そうすれば完全に浄土へ往けるんだ、それを疑うことはなにもいらないんだという考え方、つまり絶対他力の考え方を、いわばもう一度解体させるわけです。親鸞自体は解体させていっちまう。本当は三願転入の展開は、親鸞の最後の思想的な課題であるとかんがえていいんじゃないか、そういうことを云うと専門家に叱られちゃうから、与太ばなしみたいなことで聴いといてくたさればいいんですけども、本当は三願転入の少し先に、念仏称名をとなえれば、一遍となえようと多遍となえようと、浄土へ絶対に往けるんだという、そういう絶対他力の考え方を親鸞自身が解体させるわけです。解体させるという云い方が悪ければ、絶対他力をもう一度相対化するわけです。

どういうふうに相対化するか、つまり究極的にどういうふうに解体させるかというと、根本的には「不存知」つまり「存知せざるなり」ということに帰着するとおもいます。知ったこっちゃねえ、ということなんですよ。もうひとつ得意の言葉があるんですけど、それは「面々の御計(おんはからい)」。おまえたちの勝手だよ、ということだとおもいます。この「存知せざるなり」というのと「面々の御計なり」というのは、親鸞が最後に、念仏称名をとなえればたれだって、むしろ愚者であればあるほど、あるいは悪人であればあるほど浄土へ往けるんだという考え方にたいして、もう一度否定を加えた言葉とも受けとることができます。親鸞は自身が究極的に展開した考え方をもう一度否定、解体させるわけです。その解体の根抵になっているのが「不存知」という言葉、あるいは「面々の御計」ということです。それはどういう言葉で出てくるかといえば、とにかく念仏をとなえて、その念仏が浄土へ往く種になるか地獄へ堕ちる業になるか、そういうことは「総じてもて存知せざるなり」ということなんです。知ったこっちゃないですよ、ということなんです。絶対に念仏をとなえなさい、それは浄土真宗の絶対他力の精髄である、しかしながら究極的にそれは解体させられなければいけない。その解体は、念仏をとなえなければいけないけれども、しかし念仏をとなえたから浄土へ往けるというふうにおもったら大まちがいだよ、ということなんです。つまり、そういうことはわかりませんよ、というふうに云ってるわけです。わかりませんよ、ということはなにかといいますと、要するに浄土宗の絶対他力の考え方、あるいは親鸞自らが三願転入の最後で展開した考え方、その絶対他力の考え方自体をもう一度相対化しているということです。ですから念仏をとなえれば救われるぞ、あるいは浄土に往けるぞいうふうに教えて、自らもまたそう流布してきた。それをもう一度相対化したときにどういうことになるかといいますと、念仏称名はやっぱり浄土真宗の命である、しかしながら念仏称名によって浄土へ往けるなんてじぶんで主観的におもいきめたら大まちがいですよということをもう一度云うわけです。そうじゃないんだ、念仏をとなえて地獄へ徃くのか、浄土へ往生できるのか、それはまったく存知しない、わからないんだけども、念仏称名ということに浄土真宗の命、思想の生命はかかっているんだ、かかっているけれども、それをやったがゆえに浄土へ往けるというふうにおもい込んだらちがいますよという、つまり地獄へ徃くか浄土へ徃くか、そんなことはわからないというふうにかんがえるべきだというところへ、そういうふうに解体させるわけです。その種の表現は到るところにあるんです。それは親鸞の著書というよりも親鸞の弟子が記録したものの中に、そういう考え方というのはよく表現されています。

いろいろな云い方がありますが、例えば、じぶんは父母の孝養のために念仏をとなえたことは一つもない。もし縁ある同行者ならば、それはわが兄弟であり父母であるとも云っています。丁度、新約聖書と同じようなことです。分派闘争では、あいつはおれの弟子だというようなことで、相争うなんてもってのほかである、親鸞は弟子一人ももたず候、というふうに云うわけです。親鸞が弟子一人ももたず候、というふうに云うときに、いわば親鸞自体が最後に到達した絶対他力自体をも相対化してしまっているわけです。あるいは今の言葉でいうと、白けさせちゃうということです。じぶんて白けさせちゃうわけです。その白けさせちゃったところに念仏を一遍となえれば絶対に浄土へ往けるんだという考え方、そういう絶対他力の考え方を、もう一度相対化する視点というのが、いわば〈存知せず〉ということ、あるいは〈面々の御計〉だという、そういう云われ方は受身の云われ方のようにみえますけども、必然的な契機というのが逆にあるというふうにかんがえてもよろしいわけです。〈存知せず〉、あるいは〈面々の御計〉だ、つまり勝手にしなさい、おまえがそうおもっているんならそうおもいなさい、そういうような云い方で、相対化するということをやっているわけです。おそらく、そこらへんのところが親鸞の思想の最後の到達点だとおもいます。こういうふうになったら、結局、宗教か非宗教かというようなことはわからないとおもうんです。つまり微妙な解体のさせ方なんですけども、おそらく専門家が云っている三願転入というようなことで、三願、つまり撰択本願というところに、念仏をとなえれば必ず浄土へ往けるというようなところへ、最後に計いを放棄して到達した、その到達点と云われるわけですけども、しかし、その到達点いうのは、少なくとももう一度解体させられているということ、それは自からの手で解体させているということが云えるようにおもいます。こういうところまでいってしまいますと、親鸞の思想が、いわば現代性を獲得します。今でも古くなっていないなとおもえるところは、結局、最後の、絶対他力の考えをもう一度相対化していく、〈存知せず〉、あるいは〈面々の御計〉だというところまで解体させてゆく、そこのところの一種の永続性であって、おそらく現代でもぼくらになにか訴えてくるところがあるということだとおもいます。ここまでくると、親鸞の思想は、いわば世界思想としての資格みたいなものを獲得しているようにおもわれます。例えば新約聖書みたいなものの云われ方での表現の使い方と 同じところにいってしまうんです。

やっぱり、『歎異抄』のなかにありますけども、親鸞が弟子の唯円にたいして、おまえはおれの云うことを信ずるかときくわけです。唯円が、もちろんあなたの云うことを信ずる、と答えると、親鸞が、例えば人千人を殺してみろ、というふうに云うわけです。それにたいして唯円が、いや、わたしにはそれだけの器がないから人ひとりだって殺せそうもない、まして千人をも殺せない、というふうに答えます。つまりじぶんにそれだけの器がないというふうに答えるわけです。それにたいして親鸞が、おまえは今、おれが云うことを信ずるかと云ったら信ずると云ったじゃないか、ともう一度問い返すわけです。だけど、それはわかるんだ、なぜならば、人間というのは〈機縁〉〈契機〉がなければ人千人殺すことができないだけじゃなく、人ひとり殺すことさえできない、しかし機縁あるいは〈不可避〉というものがあれば、自からはそういうふうに意図しなくても千人を殺すということはあるんだ。それはまったく機縁というものの問題であって、要するにおまえが、わたしは千人をどころかひとりさえ人を殺す器じゃありませんというのはどういのはどういうことかというと、そういう機縁がなければ悪も殺人もみんな可能じゃないんだ、ただ機縁があったばあいには、しぶんが欲しようと欲しまいと殺すということというのはありうるんだよ、といことを親鸞は云っています。

こういう話は新約聖書のなかにもあります。イエスキリストがもう磔になるかもしれないというときに、弟子たちの集まっているところで、おまえたちは、あしたの朝鶏が泣く前に、三度必ずおれを裏切るだろう、というふうに云うわけですよ。そうすると弟子たちは、そんなことはない、あなたのゆくところにはどこだってついてゆく、絶対そういうことはない、というふうに答えるんですよ。そして翌朝、キリストが十字架にかけられて殺されそうになるわけです。弟子たちは群衆にまじってそれをみている。そこに顔を知っている群衆がいて、おまえは、あの磔になる男と一緒にいた男じゃないか、というふうに云うわけです。そうすると、ペテロという一番弟子が、いや、おれはあの人を知らない、というふうに答えるわけです。群衆の一人が、いや、そんなことはないだろう、おまえは確かにあいつと一緒にいたぞ、というと、いや、あの人を知らない、と三度拒んだというところがあります。その三度拒んだというところで、丁度前の日にキリストが、おまえたちはきっと裏切るだろうというふうに云ったのを、ペテロや弟子たちは、そんなことはない、あなたのゆくところはどこだってついてゆくと云ったにもかかわらず、いや、そんなことはない、必ず裏切るよといって、その通りになってしまったじぶんをかんがえていたく哭くというところがあります。

そこではなにを云われているのかというと、いわば人間の思想の絶対性というもの、あるいは観念の絶対性といってといいんですけども、そういうものと生身の人間のもつ相対性というものとの激しい、きわどい矛盾についての認識を、そこで提示しているわけです。もちろんそこの矛盾は、キリストのほうはよく洞察しているんですけども、弟子のほうはそれを洞察していない。つまり往相的にしかそれをかんかえていないから、そこのところで、前のは、いや、そんなことはない、あなたのゆくところはどこだってついてゆくんだといって、それを裏書きできないで、まったくキリストの云ったように、あの人は知らないと拒むということで、初めて人間の思想の絶対性というものと、いわば生きて生活してゆくということを繰り返している場所での相対性というものとのきわどい矛盾に、ペテロがさらされるというようなことをエピソードの一つとして新約聖書は掲載しているわけです。

これにたいして、『歎異抄』の親鸞は、おまえはおれの云うことを信ずるか、といい、弟子の唯円が、それは絶対に信ずる、と答え、そんならおまえ人千人を殺してみろ、といったら、いや、わたしは千人はおろかひとりだって殺せません、と答える。そこで問題になっているのは何かというと、人間の観念あるいは思想の絶対性と、生活者としての相対性というようなものとの矛盾というようなことじゃなくて、そこで云っているのは、機縁といいましょうか契機といいましょうか、契機なしには人間は何事もできやしない、しかし契機があるならば、それを欲しようと欲しまいとあることをしてしまうことは、人間にとってありうることなんだ、というところに思想のポイントを置いているわけです。これは新約聖書にあるポイントの置き方とはちがうんです。契機、機縁、あるいは因縁でもいいでしょうけど、そういうものを含まずしてあらゆる現象というのは考察してはならないよ、いうことになろうとおもいます。もしなにかをそこから引き出してくるとすれば、契機ということをかんがえにいれずにある現象、あるいは事件、ある事柄を考察したら、かならずまちがうよというようなことが、親鸞のはばあいの大きな問題提示だろうとおもわれます。

そんなこと云ったってしょうがないけども、例えばある事柄にたいして市民的観点、常識みたいなものは、しばしば契機ということもなしに、じぶんとはほど遠いところでわけのわからん奴によってわけのわからんことが行われたんで、それはどうかしているというふうな観点、それがいわば市民社会の常識なわけですけども、しかしその常識というものの中にうそがあるとすれば、その観点に契機あるいは機縁というものがあれば、人間は欲しようと欲しまいとなにかをするし、またせざるをえないということがありうるのだというこた、あるいは契機がなければどんなことをしょうとおもったってできやしないんだよという問題が、しばしば市民社会に流通する思想のなかに現れてくることだとおもいます。