言の葉綴り

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言語にとって美とはなにか⑥その1韻律・選択・転換・喩

2017-01-15 08:14:53 | 言の葉綴り
言の葉 27 言語にとって美とはなにか ⑥その1韻律・選択・転換・喩
言語にとって美とはなにか 第Ⅰ巻 著者吉本隆明 発行所 勁草書房 昭和40年5月20日発行

抜粋その1
同書第Ⅲ章 韻律・選択・転換・喩 1 短歌的表現より




概論(当方注)
 言語の表現を、ややつきつめてみてゆくと、表現の内部にいくつかの共通の基盤が抽出できることにすぐ気づく。この共通性は言語の表現の長い歴史が体験として蓄積したものである。これを表現の体験が積みかさねられた結果としてみるならば、歴代の個々の表現者が必然的に、あるいは不可避的に表現者によってつくりだされる。しかし、この共通性は、いったん共通性として意識されると、自覚的に表現者によってつくりだされる。このような過程は、人間が対象的に行うことにいつもつきまとう問題である。言語の表現だけに特有のものではない。
 この言語表現の内部で抽出される共通の基盤は、表現としての韻律・選択・転換・喩とよぶことができる。
 わたしたちはすでに、意識の表出としての言語を、言語表現にまで拡張させることによって、文学的表現をあつかうための前提に達している。文字による固定化を媒介にして、表出の概念を、表出と表現とに分裂する総過程(具体的には語りのような音声による文学・芸術と書かれた文学・芸術との分裂と同一性としてあらわれる)に拡張することによって、すべての文学理論と違った道に一歩ふみこんだことになる。あるばあいに、たんに表出としての言語の特性から、文学的表現の特質にまで拡張したりしていても、それは、文学によって固定化された表現を特に強調する必要があるばあいをのぞいて、共通性として誤解をまねく余地はないとかんがえるからである。げんみつにいえば、芸術としての言語表現の半歩手前で、言語表現が表現として提起する問題をとりあつかおうとしているわけだ。この半歩手前で、わたしは、言語を文学的表現とみなしながら、芸術としてではなく言語表出としてあつかうだろう。何故このような態度が必要かといえば、言語表現を文学芸術とみなすために必要な構成の問題を、現在までのところ取り扱っていないからである。

韻律(当方注)
 尚、短歌については関連作品に吉本隆明著「抒情の論理」中 短歌命数論等があります。






 感動詞のように意識の自己表出がただちに指示性として意識に反作用をおよぼし、文字に固定されないかぎり対他的な関係をおよぼさない言語を例にとるとする。たとえば、感動詞<うわあ>を、<ウ><ワア>と分けて発音すると、何かを視たり、きいたりして感嘆している意味になるが、<ウワア>とひと息に発音すれば、うなり声や叫び声をあらわすことになる。<ウ><ワア>と<ウワア>が、もし違った意味をあらわすとすれば、ふたつの韻律の違いにその理由をもとめなければならない。すでに、韻律をふくんでいるこの指示性の根源を、指示表出以前の指示表出の本質とみなしてきたこれについて、ヘーゲルの『美学』(第一巻の中、竹内敏雄訳)には、つぎのようにかかれている。

  詩は韻文で書かれることを本質的条件とする。そうして韻文の様式はまさに韻律を有することを要件とし、この感覚的側面における区分が音や言葉に強制を加えることをまってはじめて成立する。これによってかような材料は同時に感覚敵領域から離脱したものとなる。韻文を聴く人には、それが通常の意識において気ままに語られたものとは別種のものなのだということが、すぐにわかる。それに固有の効果は内容にあるのではなく、対象面にあるのではなくて、これにつけられた規定にあるものであり、この規定は内容にあるのではなくてもっぱら主観に帰属することを直接に明示している。ここに存する統一性・均等性によってこそ、規則的な形式は自我性に諧和するひびきを発するのである。

見事なのは、意味としての言語も、価値としての言語も、対他-対自的なものであるが韻律としての言語が内容とも対象とも異なった「主観に帰属するもの」、いいかえれば意識それ自体にへばりついてはなれないも、完全に対象的に固定化されないものとみなしている点である。これをヘーゲルのように「強制を加える」ものとかんがえるかどうかはべつに論じなければならない。たとえば、日本語の韻文詩人である歌人に、七・五調、三十一文字は強制であるか、またあらかじめ保証された形式の自由とかんがえるかたずねたばあい、どちらの答えを得るかは、まったくわからない。散文家が制約とみるかもしれない音数律が、歌人にはあらかじめ保証された無限の許可とみえることはありうる。
日本語の韻律が音数率となることについて言語学者は、充分な根拠をあたえているようにみえる。金田一春彦の『日本語』は、

日本の詩歌の形式で、七五調とか、五七調とか音数律が発達しているが、拍がみな同じ長さで単純だからにちがいない。ただし、四や六がえらばれず五とか七とか奇数が多くえらばれたのはなぜか。日本語の拍は、先にのべたように点のような存在なので二泊ずつが人まとまりになる傾向があるからだろう。つまり二泊からなるものが長、一拍からなるものが短と意識され、そういう長と短との組合せで詩を作り出そうとするためであろう。いわゆる都々逸のリズムが、単なる三・四・四・三……ではなくて、一・二・ニ・ニ・ニ・ニ・ニ・一……というふうに、一と二の組合せでできているのは、そのあらわれにちがいない。

時枝誠記の『国語学言論』は、

  若しこのリズム形式を、等時的拍音形式と称するならば、国語に於いて観取されるもの、そして国語の音声的表現の根本的場面となるものは、正しくこの等時的拍音形式のリズムである。それは強弱型・高低型リズム形式に対立するものであって聴覚的には音色の変化に伴う知覚の更新感により、生理的には調音の変化による運動感覚によって、回帰が知覚される処のリズム形式である。

  ふたりの言語学者は、等時的な拍音が日本語の特質であることを認めている。短歌や俳句のような定型詩は、この特質が日本語の指示性の根源と密着するために必然的に五・七律とならざるをえなかったものであるということができる。日本語の散文や自由詩は、いわば言語本質の表現が、指示性の根源としての韻律と言語の表出としての特性として分離したものにほかならない。
  たとえば短歌のような古典詩形がなにかを問いただそうとするとき、古典詩の一種だとか、五・七の音数律をもとにした三十一文字の短詩形だとかいう答えは、はねかえってくるが、それが本質的に問われ、本質的にこたえられたことはない。日本語において短歌は言語本質が指示性の根源である韻律と不可分のかたちで表出されるもの、したがって必然的に五・七の音数律となった詩形のひとつとして考察されなければならない。

 転換(当方注)
  ここでまず、短歌的な表現をつかって韻律・選択・転換・喩を考察する。これはたんなる例であり、音数律をはらんでいるすべての詩形に共通するものを基盤にして、短歌詩固有のもんだいのあらわれ方をあきらかにしたい。たとえば、近代定型詩や俳句について考察しても、共通のもんだいと、それぞれの詩形に固有なもんだいとがあらわれるはずである、
  まず、短歌的な表現の原型をさだめなければならないが、ここでは、自然物や事実を客観的な体でのべている形をえらぶ。語り事の核が抒情となり、やがて自然物のような景物を嘱目のなかからえらびとってうたう純粋叙景によって、短歌としての表現を完成させていったという発生史的な理由からも、またそのばあいに短歌的な表出はもっと特質を鋭くされるという理由からもこれを原型として大過があらわれない。

  (1)国をおはれしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな(大塚金之助)
  (2)隠沼の夕さざなみやこの岡も向ひの岡も松風の音(藤沢古美)

  国境を追われたカール・マルクスは妻にさき立たれ、そのあとから死んだとか、隠沼に夕さざなみがたち、こちらの岡にも向かい側の岡も松風の音がしている、という叙述だけで、それがどうしたとか、だからどうなのだ、という作者の主意がのべられていない。この作品が、ただ事実をのべたとか、景物をみたとかいう無意味さにかかわらず、詩としての自立感や完結感をあたえうるのはなぜか。こういう問いに短歌の詩形としての秘密の原型がかくされている。
  伝統詩形というような言葉で、ぼんやりとかんがえているものは、韻律が音数律として七・五の三十一文字に定着していくまでに封じこめられた、しかも必然的な推移の過程が積みかさねられた言語表出を意味しており、その韻律の必然にのっかってかなり複雑な転換をなしとげているものをさしている。作品を自己表出の面から、具体的に分析すれば、よく理解される。

 「国境を追はれしカール・マルクスは」

 「国境を追はれし」までは、作者の表出意識は、マルクスになりすまして国境を追われている。そして、「「カール・マルクスは」で、作者と、それをある歴史的事件として唄っている対象的表現は分離する。

 「妻におくれて」

 ここでマルクスに観念のうえで表出を托した作者が自分にかえってマルクスは妻の死んだあとも生きのびてのち亡命者として死んだな、かんがえていると解してよい。

 「死ににけるかな」

 のところへきて、作者は表出の原位置にかえり、マルクスの死の意味に感情をこめている。
 ちょっとかんがえると或る歴史上の事実を客観風にのべたにすぎないような一首が、高速度写真的に分解して、表出としてみるとき、作者がいったんマルクスになりすまして国境を追われたかとおもうと、マルクスの感懐にふけり、また、作者の位置にかえってその死の意味に感情をこめているといったような、かなり複雑な主客の転換をやってのけていることがわかる。もちろん、この転換が作者にとって意識的であるか無意識的であるかは問題ではない。無意識の場合は表出の伝統、または指示性の根源である音数律の伝統にのってやっているだけで、いわば伝統が自覚の代償をなしているからだ。

 (略)