ブログ 古代からの暗号

「万葉集」秋の七草に隠された日本のルーツを辿る

字母歌に仕組まれた暗号 「いろは」4

2009-11-25 18:33:06 | 日本文化・文学・歴史
五段書きされた「いろは歌」の沓から「揉めて往ねよ奴ほ」と読み取ることが出来
たが、問題は「ぬほ」。私はこれまでの謎解きから「伏見稲荷縁起」で語られる
「餅(出雲)を的にして矢を射た(滅ぼした)」秦氏を「ぬほ」と名指していると
思うが、「ぬ」とは何かを考えてみたい。

まず「ぬ」の漢字表記を調べてみた。

 現在最古の「いろは」(承歴本「金光明最勝王教恩義」)には「ぬ」の<大字>
 を「奴」<小字>を「沼」と表記している。



 万葉仮名では
  音仮名・・・奴・農・濃・怒・努
  訓仮名・・・沼・宿・寐
 が使用されている。

また平仮名の「ぬ」は「奴」の草体
  片仮名は「奴」の旁(つくり)から出来たという。

私があてた「奴」が誤りではなさそうだ。
ところが、歴史関係ではこの「奴」の読み方を「ぬ」とは読んでいない。

天明4年(1784年)に筑前国那珂郡志賀島で百姓甚兵衛により発見された「漢委奴
国王」と陰刻された純金製、蛇鈕の金印が福岡の国立博物館に展示されているが、
この金印は『後漢書』東夷伝に載る、後漢朝の初代光武帝の建武中元二年(57年)
に北部九州の奴国(なこく)が遣使した際に綬与された真正品である。
この金印の「漢委奴国王」の読み方を江戸時代には「委奴」を「いと」と読み、筑
前の怡土(伊都)国に比定したり、明治時代には「漢の委(わ)の奴(な)の国
王」と読まれ、奴を古代の儺県(なのあがた)と今の那珂郡に比定され、日本史の
授業でもこのように習った記憶があるが、最近の本には「漢の<いど>国王」とル
ビがあるので驚いている。

この「奴国(なこく)」のその後を『中国正史 倭人・倭国伝全釈』(鳥越憲三郎
2004年・中央公論新社)では次のように記している。
 
  建武中元二年、倭の奴国、貢を奉りて朝賀し、使人は自ら大夫と称し、倭国の
  極南界なり。光武は賜うに印綬を以てす。
  
 上記は後漢朝の初代光武帝の崩御の一カ月前のことである。文中の「極南界」と
 は、北を朝鮮半島南端の狗邪韓国とし、南端を北部九州の奴国としたためで、そ
 れが倭国の領域とされたのである。
 そのとき授与された金印にも「漢委奴国王」と刻まれており、『旧唐書(くとう
 じょ)』東夷伝にも「倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国なり」とある。
 民族の自称としての国名は「奴国」であり、一般の慣行としても後漢朝は「奴国
 」を正式に認めるべきであった。それにもかかわらず、あえて卑称としての
 「倭国」を以てしたのである。
 そして五十年後の二回目の朝貢でも、「安帝の永初元年(107年)倭王・・・」
 として「奴国」の称は消されている。さらに七十年ほど後の「倭国大乱」で、奴
 国が討滅されて大和の邪馬台国(やまと)に政権が更迭するが、その女王卑弥呼
 の魏朝への遣使にも、「親魏倭王」としての金印が授けられている。
 なぜ、奴国は後漢朝に、邪馬台国は魏朝に対し、自らの国名を認めるよう上奏し
 なかったであろうか。その怠慢のために、その後を卑称としての「倭」「倭人」
 「倭国」が、わが国の正式な民族名・国名として定着したのであった。

中国は様々な王朝の興亡があり、それぞれ国史を編んでおり、朝貢してきた周辺国
の記事によって記紀にはない我が国の姿を知ることができる。
そして『後漢書』と同様に『宋史』外国伝・日本国条にも次の記事があるという

 日本国は本倭の<奴国>なり・・・後漢より始めて朝貢し、魏・晋・宋・隋を歴
 (へ)て皆来貢す。

しかし「奴国」は「なこく」と読まれている。
万葉仮名でも字母「いろは」の表記でも「奴」は「ぬ」とされているのに関わらず
何故「な」と読まれるのだろうか?
「あめつち」で読み取った「言わざる<ぬ>伏せよ」と関係があるのだろうか。






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