聖徳太子ゆかりの四天王寺と広隆寺に伝えられている<牛まつり>が西域のホータン(瞿薩旦那国
=梵語でゴースタナ・牛の国の意味)の瞿摩帝寺(梵語でゴーマテイ・牛糞の意味)に由来する
ものではと述べましたが、四天王寺の牛祭り<どやどや>では牛王宝印の護符が撒かれることか
ら熊野信仰の牛王宝印の源も瞿摩帝にあるように思いました。
上図の江戸時代に描かれた広隆寺の牛祭りの絵を良く見ると、牛の背にまたがる摩多羅神は後ろ
向きに乗っており、その頭には頭巾を被っていますが後頭部つまり進行方向にも目鼻が描かれて
いるように見えます。
次の明治か大正期の写真には牛の背にまたがった摩多羅神は現在の牛祭りのと同じように前向き
に乗り仮面をつけています。これら二枚の図をweb用に処理してくれた夫が仮面をつけるように
なった理由として「神が後ろ向きに乗ったことで顔が無いのは不自然と後頭部つまり進行方向の
頭巾に顔を描いたが、後ろ向きの乗る由来が忘れられたために摩多羅神を前向きに改めることに
したが、頭巾に描かれた神の顔を今度は白塗りの面をつけることで表現したのではないか」と言
うのです。確かに後ろ向きに乗ることは不自然ですから合理的な方法に変更しましたが<牛の糞
>の伝承は全く消えてしまったようです。
牛王宝印は熊野神社、高野山(空海が開祖)、八坂神社をはじめ山王、白山、熱田、富士浅間な
ど各地の社寺で出す「牛王宝印」と書いた災厄除けの護符です。
熊野のものが最も有名で半紙大の紙に熊野神の御使いと言われる75羽の八咫烏のしるしが書か
れていますが、残存する鎌倉時代の牛王宝印の図柄に烏は描かれてはいません。字画の一部を烏
形に装飾したのは新しく、戦国時代に考案されたもので<烏点宝珠・うてんほうじゅ>と称され
ています。
牛王の謂れは、「生土・うぶすな」の<生>の下部の<一>が<土>の上部に移り<牛王>となっ
たと言う俗説がありますが、生土とはその人の生まれた土地のことなので牛王はうぶすな神と信
じられていたようです。しかも<烏点・うてん><于闐・ウテン=ホータンの別名>と謎解きの
ルールに合致しています。単なる語呂合わせと一笑に付すむきもありますが、山上憶良にはじま
る<秋の七草>の暗号を解く鍵は同音異義熟語(語呂合わせ)なのです。于闐(ホータン)が
牛王の生土・瞿薩旦那国(牛の国)と発信したと思われます。
また、熊野の神は虚言を正すとの信仰から中世以降の武士は起請文を書くのにこの牛王宝印の裏
に署しました。源義経が兄頼朝に異心なきことを牛王宝印の裏に書いて差しだしたと伝えられて
います。
しかしながら全国熊野神社の総社である熊野本宮大社の熊野信仰とは何かという本質的な部分
は不明ですが、主祭神は<家津美御子大神(けつみこのおおかみ)>。みけつ神は食物を司る神
で稲の神様と考えられております。伏見稲荷大社の祭神<宇迦之御霊大神>も一般的に穀霊とさ
れますが、<秋の七草>の謎解きでは、<宇迦之御霊大神>とは出雲大社の後背にある<宇迦山
に鎮まる御魂>つまり<大国主命=大穴牟遅神>のことで出雲国の<国霊>なのです。たしかに
人々が生きるためには食糧が必要で神に豊作を祈る行為は普遍的ですが、私たちが神に祈る場合
穀霊とは限らず、祖先神であったり、地域で祀られている地主神であったり、この世界を生みだ
した創造主という大きな存在をイメージするのではないでしょうか。
三山ある熊野大社は紀州和歌山にありますが、出雲の意宇川上流にも同名の熊野大社が存在して
おり、出雲国神賀詞の冒頭にその祭神名を「伊射奈伎乃日真名子迦夫呂岐熊野大神櫛御気野命」
と記されており、この日本国を生んだイザナギの聖なる御子神たる櫛御気野命の意味という。
「出雲国風土記」には「伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」とあり、素戔鳴尊の別名と言われ
ています。
「日本書紀」神代上に天照大神が素戔鳴尊の心を疑いうけいをする場面がありますが、素戔鳴尊
の首にかけた<八坂瓊の五百箇御統(珠)>から生まれた五番目の子を「熊野橡樟日命」と記し
ており、橡樟とは<樟の木>のことです。熊野の神と同一神と思われ、珠から生まれた熊野神
が玉の産地であるホータンの別名・瞿薩旦那国(クスタナコク)の<くす>を含んだ神名であっ
た事が興味深く思いました。
素戔鳴尊は記紀では伊弉諾、伊弉冉尊二神の子として登場する出雲系神話の始祖ですが、
「日本書紀」一書第4では新羅の曾尸茂梨(そしもり)に天降ってから出雲の鳥髪峰に来たと
記されておりその神名は「スサの地の男」を表すと考えられています。はじめに天降った地の
曾尸茂梨とは朝鮮半島・江原道春川府の牛頭州。牛頭天王を祀る牛頭山のある所です。
牛頭天王とは牛冠を被った貴人の意味で日本書紀・祟神天皇の条に「任那国がソナカシチを
(我が国)に遣わして朝貢した」とありますが、ソナカシチとは朝鮮語でソは牛、ナカは出て
来る、シチは尊称で「牛のように角の出ている貴人」と考えられており、朝鮮半島(新羅)の
貴人は牛冠をかぶり牛族と意識していたようです。
吉田大洋氏は「牛族は太陽神を奉じ、その象徴である「菊花紋」「木瓜紋」「十字紋」を用い
た。スサノオの神紋も十字紋の変形である「祇園守」と「木瓜」である。スサノオは牛族であ
ったとしてよいだろう。」という。
今回のシリーズの「謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥」は「秋の七草・藤袴」と「古今伝授・稲
負鳥(いなおうせどり)」に対応し、出雲と新羅を導き出すヒントであると予測しました。
藤原定家の詠花鳥和歌十二カ月で十月に充てられているのが
花ー残菊ーかみな月しもよの菊のにほはずは秋のかたみになにをおかまし
鳥ー鶴ー夕日かげむれたるたづは射しながらしぐれの雲ぞ山めぐりする
と歌われ、花は菊、鳥は鶴(たず=白鳥)が詠みこまれています。
古今伝授の稲負鳥とは白鳥でしたから、この組み合わせを選びましたが、秋の七草の藤袴とは
合致しないので伝承が正しく伝わらなかったからではと疑っていましたが、新羅の牛族の用いる
「菊花紋」の菊が重要なヒントとして詠み込まれていたようです。現在の皇室は菊の御紋ですが
新羅との関係を暗示しているのかもしれませんね。
=梵語でゴースタナ・牛の国の意味)の瞿摩帝寺(梵語でゴーマテイ・牛糞の意味)に由来する
ものではと述べましたが、四天王寺の牛祭り<どやどや>では牛王宝印の護符が撒かれることか
ら熊野信仰の牛王宝印の源も瞿摩帝にあるように思いました。
上図の江戸時代に描かれた広隆寺の牛祭りの絵を良く見ると、牛の背にまたがる摩多羅神は後ろ
向きに乗っており、その頭には頭巾を被っていますが後頭部つまり進行方向にも目鼻が描かれて
いるように見えます。
次の明治か大正期の写真には牛の背にまたがった摩多羅神は現在の牛祭りのと同じように前向き
に乗り仮面をつけています。これら二枚の図をweb用に処理してくれた夫が仮面をつけるように
なった理由として「神が後ろ向きに乗ったことで顔が無いのは不自然と後頭部つまり進行方向の
頭巾に顔を描いたが、後ろ向きの乗る由来が忘れられたために摩多羅神を前向きに改めることに
したが、頭巾に描かれた神の顔を今度は白塗りの面をつけることで表現したのではないか」と言
うのです。確かに後ろ向きに乗ることは不自然ですから合理的な方法に変更しましたが<牛の糞
>の伝承は全く消えてしまったようです。
牛王宝印は熊野神社、高野山(空海が開祖)、八坂神社をはじめ山王、白山、熱田、富士浅間な
ど各地の社寺で出す「牛王宝印」と書いた災厄除けの護符です。
熊野のものが最も有名で半紙大の紙に熊野神の御使いと言われる75羽の八咫烏のしるしが書か
れていますが、残存する鎌倉時代の牛王宝印の図柄に烏は描かれてはいません。字画の一部を烏
形に装飾したのは新しく、戦国時代に考案されたもので<烏点宝珠・うてんほうじゅ>と称され
ています。
牛王の謂れは、「生土・うぶすな」の<生>の下部の<一>が<土>の上部に移り<牛王>となっ
たと言う俗説がありますが、生土とはその人の生まれた土地のことなので牛王はうぶすな神と信
じられていたようです。しかも<烏点・うてん><于闐・ウテン=ホータンの別名>と謎解きの
ルールに合致しています。単なる語呂合わせと一笑に付すむきもありますが、山上憶良にはじま
る<秋の七草>の暗号を解く鍵は同音異義熟語(語呂合わせ)なのです。于闐(ホータン)が
牛王の生土・瞿薩旦那国(牛の国)と発信したと思われます。
また、熊野の神は虚言を正すとの信仰から中世以降の武士は起請文を書くのにこの牛王宝印の裏
に署しました。源義経が兄頼朝に異心なきことを牛王宝印の裏に書いて差しだしたと伝えられて
います。
しかしながら全国熊野神社の総社である熊野本宮大社の熊野信仰とは何かという本質的な部分
は不明ですが、主祭神は<家津美御子大神(けつみこのおおかみ)>。みけつ神は食物を司る神
で稲の神様と考えられております。伏見稲荷大社の祭神<宇迦之御霊大神>も一般的に穀霊とさ
れますが、<秋の七草>の謎解きでは、<宇迦之御霊大神>とは出雲大社の後背にある<宇迦山
に鎮まる御魂>つまり<大国主命=大穴牟遅神>のことで出雲国の<国霊>なのです。たしかに
人々が生きるためには食糧が必要で神に豊作を祈る行為は普遍的ですが、私たちが神に祈る場合
穀霊とは限らず、祖先神であったり、地域で祀られている地主神であったり、この世界を生みだ
した創造主という大きな存在をイメージするのではないでしょうか。
三山ある熊野大社は紀州和歌山にありますが、出雲の意宇川上流にも同名の熊野大社が存在して
おり、出雲国神賀詞の冒頭にその祭神名を「伊射奈伎乃日真名子迦夫呂岐熊野大神櫛御気野命」
と記されており、この日本国を生んだイザナギの聖なる御子神たる櫛御気野命の意味という。
「出雲国風土記」には「伊弉奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命」とあり、素戔鳴尊の別名と言われ
ています。
「日本書紀」神代上に天照大神が素戔鳴尊の心を疑いうけいをする場面がありますが、素戔鳴尊
の首にかけた<八坂瓊の五百箇御統(珠)>から生まれた五番目の子を「熊野橡樟日命」と記し
ており、橡樟とは<樟の木>のことです。熊野の神と同一神と思われ、珠から生まれた熊野神
が玉の産地であるホータンの別名・瞿薩旦那国(クスタナコク)の<くす>を含んだ神名であっ
た事が興味深く思いました。
素戔鳴尊は記紀では伊弉諾、伊弉冉尊二神の子として登場する出雲系神話の始祖ですが、
「日本書紀」一書第4では新羅の曾尸茂梨(そしもり)に天降ってから出雲の鳥髪峰に来たと
記されておりその神名は「スサの地の男」を表すと考えられています。はじめに天降った地の
曾尸茂梨とは朝鮮半島・江原道春川府の牛頭州。牛頭天王を祀る牛頭山のある所です。
牛頭天王とは牛冠を被った貴人の意味で日本書紀・祟神天皇の条に「任那国がソナカシチを
(我が国)に遣わして朝貢した」とありますが、ソナカシチとは朝鮮語でソは牛、ナカは出て
来る、シチは尊称で「牛のように角の出ている貴人」と考えられており、朝鮮半島(新羅)の
貴人は牛冠をかぶり牛族と意識していたようです。
吉田大洋氏は「牛族は太陽神を奉じ、その象徴である「菊花紋」「木瓜紋」「十字紋」を用い
た。スサノオの神紋も十字紋の変形である「祇園守」と「木瓜」である。スサノオは牛族であ
ったとしてよいだろう。」という。
今回のシリーズの「謎解き詠花鳥和歌 残菊と白鳥」は「秋の七草・藤袴」と「古今伝授・稲
負鳥(いなおうせどり)」に対応し、出雲と新羅を導き出すヒントであると予測しました。
藤原定家の詠花鳥和歌十二カ月で十月に充てられているのが
花ー残菊ーかみな月しもよの菊のにほはずは秋のかたみになにをおかまし
鳥ー鶴ー夕日かげむれたるたづは射しながらしぐれの雲ぞ山めぐりする
と歌われ、花は菊、鳥は鶴(たず=白鳥)が詠みこまれています。
古今伝授の稲負鳥とは白鳥でしたから、この組み合わせを選びましたが、秋の七草の藤袴とは
合致しないので伝承が正しく伝わらなかったからではと疑っていましたが、新羅の牛族の用いる
「菊花紋」の菊が重要なヒントとして詠み込まれていたようです。現在の皇室は菊の御紋ですが
新羅との関係を暗示しているのかもしれませんね。